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【記憶の石】15

 身分証としてパスポートを提示し、コピーを取られて返却されてから、久子は自分の名前を失った。つい数分前までは、『久子さん、』としっかり名前を呼ばれていたのに、この切り替えのスピード、そして違和感の無さに、もうこの世界に足を踏み入れたら最後、元の人間には戻れないのかもしれないし、あるいは本名を取り戻すのも一瞬なのかもしれないと2パターンの想像をしてみた。
 オフィス街の駅に、スーツを着た中年の男、あまり怖そうな雰囲気ではないにこやかな男が迎えに来て、『久子さんですか?』と丁寧に話しかけられた。返事をすると古く狭いビルへ案内され、そこで久子は「店長」に引き渡された。店長は迎えに来た男よりだいぶ若く、細い長身、グレーのスーツに真っ黒で密集した少し長い髪、窪んで浅黒い目元で『初めまして久子さん、店長の上田です。』と言って久子を古い扉の向こうへ招き入れた。

『風俗は初めてでいいのかな?』
『はい。』
『そっか~。今いくつなの?』
『23歳です。』
『ふんふん、じゃぁ20歳ってことにしとこうか…。』
 店長はパソコンにテキパキと何かを打ち込みながら久子に尋ねる。なんだか質問への回答以上のことを書いているようだ。
『じゃ、名前どうしよっか?なんか自分でつけたい名前ある?一応既存の女の子とは被らないように。』
『名前、うーーーん。』
 久子は照れ笑いしながら悩む。一瞬、「すみれ」でもいいかと考えたが、それはあまりにも自分への皮肉が過ぎていると思ってやめることにした。
『ふふっ、悩んでるね。とりあえず先に身分証もらっちゃおうかな。』
『はい。』
 久子はパスポートを提出した。店長はパソコンの後ろでコピーを取り、久子へ返しながら『イズミちゃんでいい?』と提案した。
『それでいいです。』
 なんでもよかったので即答した。
『じゃ、イズミちゃんこれから写真撮るね。今日は簡易的な写真だけど、ちょくちょくカメラマンがキレイに撮ってくれる機会があるから、そのときに声かけるからね。』
 店長は最初から彼女がイズミという名前だったかのように呼んだ。店長はイズミを壁に立たせてポーズを指示する。目を手のひらで遮ったポーズの写真を斜めから数枚撮られ、あっという間に店のホームページにイズミのページが出来上がったのを見せられた。先ほど長々とパソコンに打っていたのはこの文章だったのか——風俗店特有の、テンション高めな嬢の紹介文だった。
『業界未経験の大型新人!ふんわりロングヘアにエロさを秘めた明るい笑顔、あなたは夢中になるでしょう。予約困難になる前にぜひ一度、イズミちゃんにあなたのムスコを委ねてみては?——』
 勝手に大型新人にしないでくれと思いつつ、店長の文章に少し笑った。
『じゃあ今日は初めてだから、いいお客さんつけるよ。上が待機所だから使い方案内するね。』
 ビルの階段を上がる2人の下に、「仕事」を終えてきたであろう女の子が駆け上がってきていた。
『おーみやびちゃんお疲れ!』
 店長が上から声をかける。
『すいませんグリンス補充してくださーい。』
『おっけー、今新人の子案内したら降りるからね。』
 漫画喫茶をもっと粗末にしたような空間だった。待機所に入るとすぐ手前にウォーターサーバーとインスタントコーヒー、ティーパックのカゴが置かれている。仕切りのあるブースはカーテンが取り付けられていて、中には座椅子と毛布、テレビが置いてあるのがわかった。
『出勤したらスタッフの誰かに来ましたーって声かけて、あそこのホワイトボードに誰がどこのブースに入ってるかわかるように自分の名前書いてね。お客さん入ったらスタッフが呼びに来るから中で好きに過ごしてて。一生懸命勉強してる子とか、寝てる子とか、大量の漫画持ち込んでる子とかいて過ごし方はいろいろだよ。』
『わかりましたぁ。』
『じゃあすぐお客さん決まると思うから、ちょっと待ってて。』
 イズミはブースのカーテンを閉めた。テレビに刺さったイヤホン、美容外科や精神科、性感染症専門クリニックの貼り紙を眺めていると階段を上がる音が聞こえてきた。
『イズミちゃん、早速1本目決まりました!何回もウチ利用してくれてて他の女の子から変な評判聞かない人だよ〜最初だけ現場ついてくね。で、コレがお仕事に持ってってもらうバッグね。中のポーチにゴムとグリンスとうがい薬、と、ローションと爪切りとお礼カードとペン。んでコレが時間測るタイマー。リクエストによっては多めに持っていったり、オプションで手枷とかパンストとか持ち物増えることあるからね。じゃっ。』
 店長は早口で説明するとイズミにバッグを持たせ、一緒に階段を降りてビルの外に出た。歩いてすぐのレンタルルームの受付に慣れた顔で声をかける。
『どもー、新人ちゃんの1本目付き添いです。』
『301です。』
一切余計なことを言わずに受付の中年男はボディソープが入ったカゴを店長に渡す。
 タイマーを時間マイナス10分でセットし最初に一緒にシャワーを浴びて、グリンスで陰部を洗いうがいさせる。客の体を拭いてやり、プレイして抜く。タイマーが鳴ったら10分セットして、10分以内で事後のシャワーと互いの身支度と挨拶を済ませる、という流れをまた早口で教えられ、店長とはそこで別れた。
 初めての客は、皮膚がざらついた小太りの中年だった。他の嬢や店長からのお墨付きの通り腰が低く丁寧に接してくれたが、自分がネット上で吟味した相手ではなかったので、当然のことではあるが何もおもしろいことはなく甚だの苦痛を味わった。

 ——でも、あのバイトのほうがずっと辛かったな——2本目の客の相手をしながらイズミは思い返していた。
 久子がイズミになる1年半ほど前、高収入のコールセンターという求人に応募し、3ヶ月で辞めた。仕事内容はネット回線の電話勧誘だった。ひたすら望まれない電話をかけ続け、迷惑だ、二度とかけてくるなと電話口で怒鳴られながら、1日1人くらい回線を乗り換えてくれる人をゲットする、というものだった。本当に高収入なのは1日に5人も10人も獲得できる者だけで、そういう人は月収が50万円ほどまで達していた。ひたすら罵倒される苦行に耐え続けるだけの者は、ただ職場に滞在している分の1100円の時給しかもらえなかった。誰からも必要とされず傷つく仕事には、高収入の文句につられて毎日新しい人が入ってきて、毎日ごっそり消えていった。たった1日で退職の意思表示ができる勇気がある人たちを心の底から尊敬し、羨ましいと思った。久子は辞めたいです、と言う勇気が出ないまま、こっそりワン切りなどを繰り返して定時まで席に座り、最低の時給だけを発生させることで凌いでいた。
 かける電話番号は、各々の端末に「リスト」として送信される。リストは1つ50件ほどで、地方ごとにまとめられていた。すべての電話番号に発信したら、社員にリストの追加を依頼する。
『1つのリストを無駄にしないで!ちゃんと獲得できるように話を長引かせる!かけただけで終わりにしない!リストは業者から買っててコストがかかってるんだから!ちゃんと結果を出して!!』
 女性社員が声を張り上げる。人の電話番号をリスト化して販売する業者が存在することを、使い捨てのアルバイトたちにあっけらかんと明かしていた。

——お忙しいところ失礼します、わたくし光回線事業の案内をしておりまして、この度NTTのフレッツ光ご利用の皆様に月々の利用料がお安くなるプランをご紹介しております——
 ここまですべて言い切れればいいほうで、だいたいセールスの電話だとわかればなんらかの形で通話が終わる。そのいいほうなのが無言でガチャ切り、シャットアウトされることだ。こちらに説教してきたり、アポインターと会社の情報を事細かに聞き出して警察に相談すると言われたりもする。会社の名前は、聞かれたら架空の社名を言う決まりになっていた。そんなこと今の時代調べたら一瞬でわかることなのに、『ヒカリ案内株式会社』と唱えることになっていた。そんな浅はかな命名で、よく嘘を突き通そうとするもんだと久子は思っていた。確かに電話をかけた相手がネット回線を利用していて、乗り換えに了承するならこの会社はその人の回線契約を変更させることができたので、そういった事業を行うライセンスのようなものは持っているのだろうが、そもそも勧誘する相手の名前も住所もよくわからないまま突撃で電話をかけるのだ。電話番号を販売する業者はただ現存する番号をまとめて売っているだけで、番号の持ち主の名前などの情報は一切入っていない。固定電話なら市外局番でおおよそのエリアが推測できるくらいだった。だから、電話に人が出ても『あのー、ここ会社なんですけど。』と法人に当たってしまうこともしばしばあった。
 一度、電話に出た男性の声が『どちらへおかけですか?』と尋ねた。久子がほんの一瞬、答えに詰まるとこちらが相手の情報をあまり把握していないことがすぐにバレて、冷酷に『二度と電話してこないでください』の『い』がほぼ聞こえないくらいの勢いで電話を切られた。また、当然のことながら頻繁に『どうしてウチの番号を知ってるの!?』と詰問されるので、そのときは『このご地域に順番におかけしております。』と全く回答になっていないことを言った。これは月収50万プレイヤーのバンドマンから盗んだ技で、だいたい6割くらいはこれで納得させられたし、一家庭に一度しかかけてはいけないという決まりでもなかったので、『はい○○です。』と名乗る家は架電記録にメモして次回はさも相手を知っているかのように『お世話になっております○○様、わたくし——』と話し出すようにした。ただそれは自分の精神の消耗を最小限にして時間をやり過ごすための手段に過ぎなかった。久子はこの職場で「稼ぐ」ことを諦めた。人から疎まれる仕事が惨めで、屈辱だった。客から怒鳴られることは構わない。グレーな営業ではなく、問い合わせ先としてのコールセンターだったら、どんなクレームでも堪えられる気がした。しかし、会社の名前もどうやって電話をかけているのかもまともに明かせない会社にいて、利益のために多くの人を苛立たせるのはとても誇れることではなかった。久子はすぐにでも辞めたかったが、辞めたいと言えなかった。久子は一般的な大学生より多くの収入が必要だったから、すぐにでも他のアルバイトを探す気持ちはあった。入職して1ヶ月ほどで、たまたま同じ大学に在籍しているという女の子が入ってきたが、醜怪な仕事にすぐに見切りをつけたのか、3日でスマートに去っていった。
 傷つかないのは乗り換え手続きの操作をする正社員だけで、「客」になってくれる人を捕まえてくるのはアルバイトの仕事だった。この話に承諾してもらえれば、罵倒されることはないのだ。自分だけ無傷でカモだけ獲ってこいという社員たちにやるせなさを覚えた。
 3ヶ月目に入って、いい加減退職の意思を伝える勇気を出さなければ自分が壊れてしまうと危機感を募らせた久子は、勇気を振り絞って当月いっぱいで退職することを伝えた。女性社員は1本1本の架電を無駄にするなとうるさかったが、それを除けば最も話しやすかったので彼女に申し出た。嫌な顔をせず、笑顔で『あっ、わかりました〜じゃあ残り期間よろしくね。』と返された。退職の申し出に慣れ過ぎていたのだろう。こんなにあっさりしているならもっと早く言えばよかったと少し後悔したが、辞められることが決まって嬉しくなり、残り2週間余りは不思議とどんなに罵声を浴びても平気だった。
 それから、ここまで久子はファストフードチェーン店で働いている。生活のかなりの時間を稼ぐことに充てるため、年中無休で早朝から深夜まで好きな時間にシフトを入れられるような職種を選び、大学の授業のスケジュールとうまく組み合わせてほぼ社員と変わらない時間数を働くことで確実な収入を得た。働く時間は増えたけれど、生産性がなく惨めな電話勧誘より、ずっと心が穏やかだった。

 それで間に合っていた。それで間に合っていたはずなのに、ぼんやりと自分だけのお金がもっとあったらいいのにと抱いていた思いが日に日に濃くなっていった。久子はある日突然必要のない借金をしてみた。働き詰めの日々に、少しの休みと使うあてが未定の、学生にしては結構な額である金が、欲しくてたまらなかった。牛丼屋を辞めるつもりはないが、違う名前で働く時間が、これからも続くこのえらく金のかかる生活を楽にしてくれるのではないかと、いつか自分は報われるのだと、思いたかった。


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