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【記憶の石】11

 久子は大学2年生の冬、同年齢の者たちから少し遅れてスマートホンに切り替えた。学生までは携帯代を負担すると言っている父親が、そろそろスマホにしようかと提案してきたタイミングでガラケーを手放すことにしたのだった。久子は初めての携帯と同じく、ピンク色の端末を選択した。初めての携帯から2回、機種変更させてもらっていて、次は携帯サイトで最初に知り合った人が持っていたようなスライド式の携帯が欲しかったのだけれど、ガラケーの時代はどうやら終わりを迎えるらしかった。久子は1枚の板いっぱいに貼られた画面の中に、中学を卒業したばかりの頃の映像を浮かべていた。この画面の半分に満たないサイズの世界で、様々な心理戦に奔走していた、今からそう遠くない痛ましい過去の生活を。

 いつからか、LINEというツールの存在をちらほら聞くようになって、それも久子のほのかな憧れとなっていた。無料で通話ができるチャットツール。LINEで長電話して、という話を大学ですれ違う人々から吸収するようになっていた。長電話。憧れのコミュニケーションだった。いきなり電話をかけ合える関係に発展した人はこれまでいなかった。久子が高校1年生から人との関わりを模索するようになって、多く経験してきたコミュニケーションの種類は男との性行為だった。果たしてコミュニケーションが成立していたのか怪しいことのほうが圧倒的に多かったけれど、ファッション誌がたびたび『SEXは大切なコミュニケーション♡』と謳っているものだから、男と交わっている自分は"コミュニケーション"をしていると思い込んでいた。男とすぐに性行為に持ち込める自分は芋っぽさから垢抜け魅力的に成長したのだと、信じたかった。その先に四六時中メールを交換して、長電話で語り明かして、ちょっとした遠出をして、という煌めく人間関係の進行を叶えたくて、男の欲望はすぐにでも満たしてあげようとしていた。でもそれは、家族旅行のだいぶ見栄を張った土産品を献上して、一瞬だけ喜んでくれてすぐに散ってしまう小学校のクラスメイト達のようで、これ以上どうしたら彼ら彼女らの心をグッと掴めるのか途方に暮れていたことを、久子はときどき思い出していた。その当時、久子は携帯1台で遊んでくれる人をいくらでも見つけることができたけれども誰も彼女の希望を見出せず、会って性交渉に及べばすぐに鬱陶しがられた。ご丁寧に『そんなつもりじゃなかったんだ。勘違いさせてごめんねm(_ _)m』と謝ってきた男は1人だけいた。全身が真っ赤に燃え上がるような衝撃的な羞恥心が胸を貫いたけれど、音信不通にして文字通り振り切ろうとする人間よりはいくらか誠実だったであろう。久子は、音声や文字で出力された言葉なしでは、人の意思を理解することができないのだ。そして、言葉の裏にあるものや、その意味の広さ狭さもわからなかった。だから、『好きだょ💓』と言われたら本当にその通りに解釈したし、何も告げられなければ、この人は自分にはもう興味がないのだろうなと受け止めることもできなかった。連絡を断たれたという現状に悲しみ、傷ついてもそれがつまり「関係を切られた」ことが成立しているなんて久子にとっては別軸の話で、そこまですべてが繋がった想像を働かせるなんて、県内一の進学校に進むより、今の大学に合格するより、はるかに難しかった。
 久子は高校時代という人生のステージを、ほぼ惨めなストーリーで埋めてしまった。小さな画面から人を探し出し、現実世界で会い、交わり、そして目の前から消え去ろうとするところを今度こそ逃さないと必死で繋ぎ止めようとした。ケータイで出会った者は皆、久子をものの一瞬で自分の視界から消した。小さなボタンでカチカチと、久子からの電波を食い止めた。
 スマホと対比してガラケーと呼ばれるケータイの時代が終わるなら、そんな過去も清算できるかもしれないとほんのり思った。実は、久子は処女に戻ろうとして、いやそんなことは不可能なのだけれど、高校生活終盤の頃、不純な生活を浄化したくて行動したことがあった。それはスクールカウンセラーとの面談を申し込み、とりあえず話してみようという試みだった。
 17歳の冬。高校卒業目前にしてまだ17歳だった久子は、あまりに若い自分が抱えている過去に悩むようになった。さすがに受験が控えていたから、男と遊びに行くことはなくなったのだけれど、あの行動をやめているときだったからこそ、自分がしてきたことの惨めさに苛まれた。カウンセリングの前、何度も頭の中でシミュレーションをしてみた。どうしても他人と関わってみたくて、中学を卒業したばかりのころから、ネット上の男と出会うようになって、性行為に至っては捨てられてを繰り返していた自分が、カッコ悪くて仕方ないんです——。
 実際には、その事実を説明することはできなかった。予約の当日、カウンセリングルームのドアを開けると若い女性のカウンセラーが部屋で待っていた。過去がなさそうな、というのは、皮肉ではなく本当に目指すべき人物像として後ろめたいエピソードがなさそうな女性だった。
『えっと…この学校の生徒としては、あんまり信じてもらえないかもしれないんですけど、私ずっとグレてて…なんか、やばいんですよね。』
 カウンセラーはにこやかに反応した。
『グレる、って久しぶりに聞く言葉だね。グレるっていうのは、万引きしちゃってたりとか?』
『いや、犯罪はしてないんです、援交でもないし…。』
 久子はここで初めて、自分と男たちとの関係に金銭が発生していなかったことに気づいた。金欲しさで男に「ヤらせてあげる」女がいることはよく知っていたが、彼女が欲しかったのは金ではなく人だった。自分とずっと関わっていてほしかったから、男がセックスに持ち込みたそうなそぶりを見せると焦らすことなく同意した。自分が「させてあげる」側でもなかった。性欲のようなものに目覚めてから、男と触れ合うことには癒しを得たし、出会った男とセックスに持ち込めるように相当な努力をした。男をその気にさせる外見でいることに最も力を注いだ。
『うーん、なんか、過去がやばいんです、望ましくないのはわかってるんですけど、なかなかやめられないことがあって、今はさすがに受験だから落ち着いてますけど…。』
『うんうん。』
『なんか、ダサくて…。自分には必要な通過点とか、努力だったのかなって考えることもあるんですけど、どうしても自分の経歴を汚してるような…。すいませんよくわかんなくて…要するに、え、あ、うーん、私の過去がまずいです…。』
『うんうん、でも…久子さんは嫌かもしれないけど、それも久子さんを作ってきたんだよね。』
 作ってきた——人間の歴史としては積み上げてきたかもしれないけれども、久子は出会う男に捨てられるごとに、何がいけなかったのだろうと考えても失敗から何も見出すことができず、魅力のないただ派手な女子高生が孤独と暇を持て余しているように自分を俯瞰していた。作ってきた、というのは人生の歩みがそういう内容だったという意味では合っている。しかし、久子の目的、人間関係の開拓は一向に叶わないままだったので、まだ理想の自分が実現できていないという点で中学校の終わりから自分には何の要素も増えておらず、誰かの竿で処女でなくなったということしかバージョンアップしていなかった。
 久子は『グレていた』という言葉を発したが、まさに非行だったかもしれないし、あるいは援助交際に至っていないという点で、健全ではないけれども非行には値しないのかもしれない。久子は15歳でラブホテルの利用に慣れていたけれども、本当にグレていたのは15歳をそんな場所に連れ込む成人男性のほうだったのは確かだ。でも、性行為には麻薬のような中毒性があったので、久子がやっていたことは、たまにニュースで報道されるような、ホテルの一室で薬物をやっているのと性質は変わらないのかもしれないとも考えられた。
 私の行動は、グレてたんでしょうか——カウンセラーに正直に話してジャッジを求める勇気が出なかった。カウンセラーという職業の人に聞くには、あまりにも不毛な問いだったからだ。もちろん、そんなことを確かめることが目的ではなかったはずなのだけれど、内容を打ち明けることができなかったために終着点がよくわからなくなり、久子はカウンセラーを目の前に「詳細は不明だが、確実に何かをやらかしてきた女子高生」として完成し、カウンセリングルームを後にしたのだった。久子はこうして意図せず「作られ」て、高校を卒業した。

 久子は東京の大学に進んだ。どこにでもありそうな学部だけれども、一人暮らしをしたかった。いちいち親の送迎が必要な田舎暮らしにうんざりしたからだ。両親は、周りに自慢できるような優秀な大学に進んでくれるなら遠方で下宿生活になろうが喜んで金を出すつもりだったので、女子寮ではなく普通のアパートやマンションに住みたいと頼んだ。自分の部屋に、親の目を気にすることなく男を連れ込めたら、という思いがあったのだ。入学のほんの2ヶ月前までは男とたくさん性経験があったことを懺悔しようとしていたが、自分がそれをコンプレックスに思う最大の理由であった「男とは、ネットで知り合った」でなければ、あの経験で知り、目覚めた性欲を満たしたいという欲求があった。入学して間もなく、念願の「自然な」出会いを果たして、関東の実家暮らしだった同い年の相手をアパートに招いてセックスした。交際は半年ほど続いたが、久子が相手の不甲斐なさに苛立ってきた頃に、なんとも都合良く『起業することしか考えられなくなった』と別れを告げてもらえた。久子は、この男が見ているだけで恥ずかしくて仕方なかったので、「元彼」にカウントすらしていない。3日で終わった相手ではないし、向こうにはしっかりと久子というフォルダができていたわけだが、無関係になりたかった。同じくカウントしていない、2年生の春のえらく傷ついた短期間の交際と失恋もあったのだけれど、そちらは自身の生来の不器用さがもたらしたことだったので、その惨めさに蓋をしたくて、自分の歴史から追い出すことにしている。16歳でネットで知り合った成人男性については、蓋を閉めたり、開けたりしている。16歳で22歳と付き合っていた過去が自尊心を少しだけ高めてくれる瞬間がときどきあるのだ。ただ、そのためだけに消費してしまった相手だった。

 父親が出張で東京に来た日、都内の携帯ショップで手続きをした。店員は流行っているアプリをいくつか教えてくれた。ゲームには興味はなかったが、いくつかSNSを入れてみることにした。ガラケーを手放したことで、もしかしたらあのときのカウンセリングよりも過去をきれいにできたかもしれないと久子は思った。
 そのまま父親と繁華街で食事をした。昔ほど、親との外出が屈辱的ではなくなった。それは久子が成長したからではなく、大学に進学して多少は人間関係が構築できたからだった。一緒に出かける相手が肉親しかいないことは堪え難い恥辱だったが、日常的に関わる人間が存在する今では、親との外出がそれほど苦痛に感じなくなったのだった。相変わらず両親は久子の進学先を近所に自慢しているらしい。大喜びで東京に送り出してくれる両親で、互いに都合が良かった。
 ホテルに戻る父と解散し、帰りの電車の中でスマホをいじってみた。すぐにでも連絡する必要のある人はその日時点ではいなかった。なんとなく電話帳を開く。お父さん、お母さん、と前の携帯からそのまま引き継がれた名前がいくつか並んでいた。高校時代のクラスメイトは、もう縁がないだろうと思って削除した。「びょういん」——地元で、母親に内緒で通っていた婦人科だった。もう行くことはないだろう。自分の過去の舞台の一部であったその番号も消した。

 久子は帰宅すると、最も気になっていたLINEというアプリをインストールしてみた。まず相手がいないのだから、これで人間関係が変わるわけではない。ガラケーとスマホが混在する中で、まだサークルの諸連絡はメーリングリストが主流だった。これで長電話できる相手ができたらいいな、程度の気持ちで登録する。友だちリストに、電話帳から引っ張られた既知の存在があいうえお順で並ぶ。久子は、リストの初めのほうで既にハッとした。岩蔭元宏——2年ぶりに見た名前だった。そのアイコンに、懐かしい日焼けした顔が笑っている。ああ、会ったことないけど、めちゃくちゃ知ってる、この人——。岩蔭元宏は、久子が高校生活で最後にやり取りしていたネット上の人物だった。各所に載せている顔も整っていたから、会ってもよさそうだったけれど、結局会わずに自然と連絡を取らなくなった。彼は携帯サイトで初めて出会った男と同じ大学の経済学部の学生で、当時就職先が東京に決まっていると話していた。なら、今はそう遠くはない場所に住んでいるのか——。
 石澤すみれ。元宏は久子のことをこの名前で認識している。かなりやり取りしていたから、たぶん、今でも覚えている。久子はネット上で知り合うことになった人物に、偽名を名乗っていた。理由は単純で、自分の名前が古くさくて本名を名乗ることが苦痛だったからだ。昔から、久子は自分の名前がコンプレックスだった。姉が香奈子でなぜ自分は久子になるのか。自分が地味な少女時代を強いられてきたのはパッとしない名前のせいだと強く両親に抗議してきた。しかし偽名のほうも古風な名前となった。由来は、中学校の同級生に誘われて登録したゲームサイトのニックネームをViolet★☆にしたことだった。当時、アメリカのP!NKという歌手が好きだったので、色の名前にしてみたのだ。そして見ず知らずのユーザーに興味を示されて、本当の名前を尋ねられたとき咄嗟に『すみれです♪』と名乗ったのだった。それ以来、携帯画面の中を旅するときにはすみれという名前で通した。いつからか苗字も持つようになった。こちらの由来はただ頭にパッと浮かんだ姓だったので、大きな理由はない。デバイスが変わっても、捨てたはずの過去が追いかけてくる——久子は心臓の音が聞こえてくるような衝撃を受けた。もしかしたら他にもすみれを知っている人物がいるかもしれない。それはすぐに見つかった。ただでさえまだ友だちが少ないリストで、不思議な名前はすぐに識別できた。K.という人物だが、アイコンの彼女とのプリクラから当時看護学生だった猪狩和也だとすぐにわかった。和也は久子の高校の近くで一人暮らしをしていて、3年生の夏に家に行ったことがあった。和也は胸に手を入れてきて、股間がパンパンになっているのがわかったけれど、彼は自分の意思でそこで踏みとどまった。
 久子はすぐに自分の名前を一度「A」に変え、両者をブロックした。もう、自分は石澤すみれではない。すみれには、戻らない。数々の出会い、セックス、拒絶の走馬灯を見届け、ぐったりと眠りについた。

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