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【記憶の石】17

『7/5、7/6、7/12、7/13、7/19、7/20、7/26、7/27のどこが会える?😊❤️』

 少女は具体的な日付を提示して「彼氏」に会う約束を取りつけようとした。暑くなってきた7月頭、もう3ヶ月会っていなかった。高校入学直前に彼の家に行ってから、会えない日々が続いている。最後に会った日の夜に開けたピアスは、もう出来上がっていろいろと着け替えられるようになっていた。

『ねぇトモ〜、いつなら会える?😃』
『今は研究が忙しくて😅』

『会いたい💓』
『今、東京にいるんだぁ😄』

『いつなら空いてる〜?😊❤️』

『ねぇ寂しい😫会いたいよぉ😣』

『会いたい‼️😫😫😫😫』

『今度の週末は⁉️』

 4月からずっと、のらりくらりと会いたい、会おうという申し出をかわされ続け、少女は授業中にも涙が流れて止まらなくなることがあった。単純に、ものすごく忙しいのだと思ってそれは疑わなかったのだけれど、さすがに一瞬だけでも会ってくれていいのではないかと不満が募る。
 ふわっと会いたいとぶつけているから、それが不親切なのかなと考えて『いつなら』とか、『今週末』といった日にちを特定するような言い方に変えてみた。
 これが、生身の人間に対する経験値が極めて少ない少女にできる精一杯の工夫だった。どれだけ返事が少なくなっても、来なくても、『う〜ん、また忙しそうだなぁ。彼のために堪えなきゃ…。』と受け止めるしかできなかった。その事象は着実に少女の心を蝕んでいった。
 少女は想い人専用の受信ボックスを作成し、ロックをかけ、さらに彼からのメールが届いたときにだけピンクのランプが光るように設定していた。その他どうでもいいメール、まぁ友達がいないからつまり家族からということになるが、それらはデフォルトの青が光るようになっていて、青が光るたびに携帯を逆パカしたい衝動に駆られた。姿が見えない「彼」への感情が少女の精神の容量のほとんどを占め、小中学校時代にあれほど努力を講じた友達が欲しいという熱意も、忘れ去ってしまった。

 あれほど日程を提示したメールにも関わらず、『今忙しいんだぁ😀』とだけ返ってきた。久々に光ったピンクのランプに心躍った。内容よりも反応があったことに心から歓喜した。もうそれで飛び跳ねて喜べるほど、疲弊していた。
 会いたい欲求が限界値を突き上げ続けるので、少女は彼のバイト先に行ってみることにした。初めて会ったとき、車で市内を回りながら『あそこがオレのバイト先!』と指差したドラッグストアがあった。少女が自力で行くにはだいぶ大変そうではあったが、地下鉄に乗って2駅、そこからさらに30分ほど歩いて到着した。  

 7月、2回目の土曜日だった。汗だくになった体を店舗の冷房が激しく叩きつけてくる。しかし体温は下がりそうにない。楽しみだった、と言うのも奇妙だけれど、少女はここに乗り込もうと決意したときから言いようのない期待感ばかりが膨らんでいた。単純に、彼が忙しいと言うので自分の体が会いに行けばいいと考えた。この日シフトに入っているのかはわからないけれど、彼が出入りしている場所に行くことを考えただけで高揚感に浸れた。

 少女は他者の心情を想像することが苦手だ。苦手というより、そもそも相手がどう感じるかを考える習慣がなかった。このアクションを起こすことで相手に『よく来たね〜!』と喜ばれるのか、あるいはギョッとされるのかという可能性を比較することはなかった。起こる未来はただ2通り、そこに彼がいるかいないかだ。
 店内をパタパタと早歩きで進む。レジにいるだろうか——大型店舗のため、レジは人の列に対して正面ではなく横向きに配置されていた。遠くからレジの店員の顔を確認するのは難しい。なんとか全てのレジに立つ人を見た限り、そこにはいないようだ。改めて全ての陳列棚の間を通り抜ける。やはりいない。しばらくグルグルして少し疲れたのと、彼のシフトと合っていないのかもしれないと思い、一度店を出ることにした。店舗に面した太い道路を遠くまで見てみると、ファミレスの看板が見えたのでとりあえずそこで時間を潰すことにした。
 土曜日の13時過ぎは混んでいて、入り口の表に名前を書いて待つ間、少女は今まで彼から受信したメールをすべて読み返した。まだ寒かった頃は、会いたい、会おうというメールが山ほど送られてきた。1日何通もやり取りした。その熱意は困惑するほどだった。それが今は、少女が会いたいと懇願する側になっていた。
 ドリンクバーで3杯ほど飲みながら、いつまでも携帯を眺める。少女は中学生の頃までは、ずっと携帯画面を見て何かしている人にささやかな憧れがあった。いいなぁ、人と繋がっているんだろうなぁ。少女より少し年上の女性たちが、ひっきりなしに小さなボタンをカチカチ操作している姿が羨ましかった。少女は携帯を使う必要などほとんどないから、お姉さんたちの姿を真似してみようとしてもテンキーから下のボタンをいじる用事がない。普通の女の子、女性たちは下方のボタンで一体どんな文章を紡いでいるのだろうか——少女にとって「普通」とは、見下した、侮蔑した表現ではなく、目指したい至高のステータスを指す言葉だった。大多数からズレていない一般的な性向と社会的な存在価値、それこそが少女がどれだけ努力しても得られないものだった。ケータイを開いてもセンターに問い合わせしてもメールはない。テンキーと決定ボタンだけで一周して終わってしまう世界。肉親しかやり取りする相手がいないなんて、いつまでも私はダサい——。

 イラ立ちが決心させ、ドラッグストアへ戻ることにした。こうなったら夜までいてやると思った。これ以上彼の顔が、頭の中で薄れていくのに堪えられなかった。彼に対する憤怒ではなく、それはこの3ヶ月間待ち続けて一向に報われなかった状況、結果に対してであった。
 14時半に店舗に戻り、陳列棚の間を縫って時間を潰した。コンドームや妊娠検査薬が置かれているスペースに見入る。これが大人の日常なのか、あるいはやはり選ばれた人にしかできない生活習慣なのか、ゴム1箱はどれくらいで使い切るのか、少女は考えを巡らせた。そろそろそこにいるのが恥ずかしくなってきたので化粧品を見に移った。少女は服よりも化粧品にずっと興味があった。自分が魅力的に思える力があるからだ。少女は化粧が濃いが、好きでそうしている。中学時代は、自分から離れたところでいい匂いのリップクリームが流行っていた。そんなもので顔が可愛くなるわけでないと知っているけれども、少女も買ってみた。人気者の女子は、数百円する香りつきのリップクリームを持っている。少女はちゃんとそれに倣った。しかしそれだけでは人気者になれなかったから、色つきリップやリップグロスを集めた。結局何も変わらなかったけれども、顔にトッピングを施すと、周りに人が集まらなくても自分が垢抜けた感じがした。当時の10代向けファッション誌に『バレない☆校則ギリギリメイク♡』のようなページがしばしばあったから、少女は毎日ささやかなメイクを仕込んでいた。卒業した同級生たちが今もなお校則に争い続けている中、15歳でピアスホールが完成していて、『あー、頭のプリンやばくなってきたな』と認識し、毎日リップとチークの色をあれこれ選べる生活は幸せだった。しかし、少女はすっぴんで恋愛をしたことがなかった。ときどき同じ制服の男女が一緒に歩いているのを見る。自分がもっとテストで点が取れない人間だったら、あんな青春はあったのだろうか——。
 さらにヘアカラーのコーナーに移ったとき、視界の隅で同じくらいの背丈の黒髪の頭が通り過ぎた。その陳列棚から飛び出して目で追った後ろ姿は確かに念願の彼のようだった。バックヤードへの両開きの扉に吸い込まれていく。時間的に、16時からの出勤だったのだろうか。制服に着替えて出てくるはずだ。

『ねぇ!!』
 少女はそれまでの人生で最も明るい声を発した。
『えっ、はっ、えっ????』
 彼のほうはかなり驚いている。
『会いたかったよ〜!!』
 尻尾を振り回す犬のように、少女は大喜びだった。
『忙しそうだったから、来ちゃった!会えて嬉しい!!』
 さらに喜びをぶつける。
『あ、うん、ちょっともう出ないといけないから…来てくれてありがとう。』
 彼は小走りでレジへと向かっていった。

 念願を果たした少女は学校へ戻り、少しの自習をして父の迎えで帰宅した。頑張ってよかった——おそらく、人間関係においてあまり発することのない感想であるが、彼が来るまで粘っていた自分はとても健気だと思った。

『バイトお疲れさま💓今日会えてちょー嬉しかった!!いなかったらどうしようかと思った😫』

『別にいいけどね。』

『うん、ありがとう😆✨✨』

 少女はその後数日、相変わらず次はいつ会えるのか、いつバイトが入っているのか問い続けた。反応がないので、何度も携帯に電話を発信した。留守電は設定していなかったようで、我慢比べのように鳴らし続けた。
 バイト先に突撃した2週間後、彼と知り合った携帯サイトにログインしてみたところ彼のページの伝言板に複数の女性のアバターが何かを書き込んでいた。それらは『ヒドくない⁉️』といった、よくわからないが彼を非難する、追うような内容だった。女性たちのプロフィールに飛んでみると、どうやら中高生のようだった。まさか——彼女たちの日記を見てみる。
『エッチしたら連絡とれなくなるとかマジありぇないんだケド。。。。死にたぃ。。。。』
 明確に名指しをしていないが、明らかに誰か特定の男を非難した日記が見つかった。自分と同じことをされている人がいるのか——動揺しながら、何か情報を得たいと思って少女は彼と同じ大学と思われるユーザーに片っ端から足あとをつけ、『足あとアリガト!』と反応してきた男子学生と思しきユーザーに尋ねてみた。

——大学はどこなんですか?
——○大ダヨ😆
——へぇ、何学部ですか?😃
——情報学部!
——まぢ?そこのトモっていう人知ってる😊❤️
——ぇ、まさかすみれちゃんも…?😨

 この人は何かを知っている。

——コイツ、中学生とか高校生の女の子に絡みに行って会おうっつって、ヤリ捨てしまくってて有名なんだよ😞💧

 ヤリ捨て、という言葉を初めて聞いた。少女は自分が完遂されたのかはよくわからないが、一度性的な接触をしたら、飽きるのか醒めるのかそれとも処女だけを狙いに行っているのか、とりあえず不誠実な人物であることは理解した。

——全然イケメンじゃないのに、謎に女の子引っかけるのが上手いってか、本気にして怒った女の子が大学に来たことあって💧すみれちゃんは大丈夫?何かされてない?

——いえ、ちょっと絡んだことあるだけ😅チャラいんですねその人ワラ 気をつけよっと❗️

——手出されなくてよかった。せっかく頭いい学校行ってるんだから、変な人と遊ばんよーにね!

 呆然と携帯の画面を見つめた。少女はここでも、明確な言葉で説明されないと人の意図を察することができない障害を認識し絶望した。おそらく、このユウマというユーザーに親切に教えてもらわなければ、あと何ヶ月も、もしかしたら高校を卒業するまで嘆きながらも待ち続けていた。
 初めての失恋が告白してフラれるでもなく、付き合って別れを告げられるでもなく、まさか自分だけが付き合っている、この人の彼女なんだと無様の極みのような誤解をしていたことをやっと認識したことだったなんて、この数ヶ月の何もかもが少女には想定外だった。夏休みは毎日泣き暮らした。連絡を断たれた理由はユウマに言われて理解しても、『別にいいけどね』というメールに対してハイテンションな礼を返したことの異質さは、それから数年経って認識した。

 孤独のままでいるより、ダサかった。

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