見出し画像

【記憶の石】12

 ただ年を重ねるだけで悩みが解決することもあるのだな、というのが、私の大学生活の感想だった。私は地元で過ごした高校時代まで、孤独であることが人生最大の問題だった。子供なりにあらゆる努力を講じてみたけれど、誰も自分に興味を持ってはくれなかった。誰かと並んで歩いたり、家族以外の人と会話してみたくて仕方なかった。学校で、自然といつも並んで歩く人が決まる仕組みが知りたかった。ところが、大学進学で東京に出てくれば、ただ生活しているだけで知り合いという存在は無限に増え続け、さらに飲み会などにも誘ってもらえるようになった。長続きはしなかったけれど、個人的に仲良くしてくれる女の子も何人かいた。学部の授業で、英語のサークルで、やっと人の視界に居続けることができるようになり、私は人の輪から弾かれるという不便を克服していることを自覚した。ただ、大学の人たちがキャンパスやmixiで『今度みんなで集まりたいね~!』と言うときの「みんな」に自分が入っていたことは滅多になかった。大学3年生の春、珍しくサークルのメンバーの1人が遠出に誘ってきた。同じサークルのリョウという男と付き合っているメグミだった。実は、1年生のときにリョウの家で、手で抜いたことがあった。夏休み明けの少し涼しくなった夜、サークル内の同学年のメンバーでリョウのアパートに詰めかけたのだが、なぜかあまり盛り上がらず、日付が変わる前に早々に皆散ってしまった。単純にリョウが気の毒に思ったので私は残って散らかった空き缶などを片付けていたのだが、その空間、空気で、私はいつのまにかリョウのペニスを握っていた。そのとき、今となっては思い出したくない彼氏がいて、リョウもそのことを知っていて遠慮気味だったのだが、私が『浮気しちゃった!』と開き直ってしまったので、リョウは私にキスをすることを憚らなくなった。リョウのペニスは、黒ずんでいなくて綺麗だった。我慢汁でペタペタするペニスを上下にしごいた。イくときリョウは照れて少し苦しそうに笑った。
 当時の彼氏——いや、数えたくない存在はただの「男」だ。"the man"という過ぎ去った概念。その男とはリョウとのお遊びの少し後に別れることになるのだが、私はリョウが前々から私に興味を持っていたことを感じていたため、バカ正直に彼氏がいると言ってしまったことを後悔していた。結局リョウは数ヶ月後にメグミと付き合い始めていた。私はリョウが私と顔を合わせると切なそうだったのが快感だった。

 メグミはリョウと共にサークルの幹部になっていた。あの夜、リョウが私の手を引きながら『ホントはひさちゃんのこと気になってたよー。』と言ったことは内緒だ。別に、リョウのその言葉自体が嘘でも、本気でなくてもいい。私はリョウとの秘密がただ楽しくて仕方なかった。秘密を1年半も持ち越した春、メグミは『もうすぐサークルも引退だし、みんなで海行かない?』と誘ってきた。私が人生で経験したことのない、「みんなで海」という行事。私はまたリョウをくすぐりたくなって、誘いに乗ることにした。
 片瀬江ノ島駅に、男女10人で現地集合した。5月末の江ノ島。泳ぐには早いが、ギラギラと暑かった。裸足で砂浜を駆け回る。大学生という生き物は、大きな子供だ。水を蹴るだけで楽しくて仕方ない。買い込んだ酒がぬるくなっても平気で飲めてしまう。私は、大きな子供になるには大きくなり過ぎてしまった。誰かが砂浜に大きく『リョウぴ♡メグ』と書く。私はカップルを囃し立てることの何が楽しいのか、さっぱりわからなかった。私はこの2人に関して、静かに、もっと楽しいことをしていた。
 夕焼けがさらに青春を彩る。『うちらめっちゃ青春してない?今日のこと一生忘れられないと思う——』会計係のユイが感慨深そうに言った。一生忘れないはずだった、それなのに記憶が薄れていった輝かしい思い出が、彼女にはたくさんあるのだろう。ある程度削れて最終的な大きさが決まったとき、この日の記憶の石が再生するものはどのシーンだろうか。自分ではない者たちの、砂浜の相合傘だろうか。ぬるくなったチューハイの缶が、噴き出して慌てる場面だろうか。それとも、夜の温泉での女子トークか——。
 女子5人で温泉に浸かるのは、女子会で酒を飲むのと同じことだ。『ねー、メグってリョウぴとどんな感じでエッチしてんの?』ユイの問いにサチ、エリコが反応する。『めっちゃ気になる!!優しいの!?』私はメグミの身体を密かに凝視する。レモンのような形の乳房に、少し黒ずんだ乳首——リョウがそれらを吸っているところを想像する。『え〜!』と言いつつ、メグミは嬉しそうだ。リョウのペニスの色かたちを知っているのが、この場に2人いるということが面白くてニヤニヤしてしまった。それはユイ、サチ、エリコのニヤニヤと異なるものだった。
 20時に男性陣とロビーで集合ということになっていた。私は『私身支度遅いから、お先に失礼!』と4人より少し早く湯から出た。支度が遅いのではない。私は大急ぎで体を拭き服を着て、髪を半分ほど乾かしたくらいでロビーに出た。リョウと、トシヤが出てきていた。あとの3人はもうしばらくサウナにいるらしい。トシヤが『俺タバコ吸ってくるわー。』と言うので、すんなりとリョウと2人になることができた。
『もー向こうの女子トークすごくてさぁ、メグにどんなエッチしてんの?なんて言って。』
『こっちも下ネタばっか。俺もおんなじこと質問攻めだったわー。メグのおっぱいはどうなんだとか。』
『ふふ。』
『…ちょっと外出てみる?』
『ん?うん。』

 私たちは温泉施設のエントランスを出た。エントランス脇のベンチに座る。
『ひさちゃんて今彼氏いるの?』
『いないよ。』
『あのときの人と別れたんだ。』
『別れてずいぶん経つよーヤツのこと久しぶりに思い出した。なんか意識高い系で見ててこっちが恥ずかしかった。起業するとかなんとか言い張ってて…。』
『うわ。それでフッたん?』
『ううん、都合のいいことに起業のことしか考えられなくなったから別れたいって言われてー。もうちょうど良すぎてハッピー!て感じ。ホントに起業したのかは知らない。興味ない。元彼にカウントしてない。アレは事故。』
『ウケる。それからずっとフリー?』
『うん、一瞬だけ掛け持ちしてるサークルのOBと付き合ったけどマジで一瞬。アレもノーカウント。なんか一方的に私のことボロクソ言われてわけわかんないまま終わってた。まぁそのことでそいつはサークルのOBと現役メンバー含めて評価ダダ下がりになったから私としてはざまぁって感じ。』
『ひさちゃんつえーな。正直ひさちゃんがずっとサークルいるのすごいなと思ってて、いやバカにしてるわけじゃくてさ。』
『ははっ!私と気まずくなると思ってたんでしょ?逆にずっと居座っててごめんて思ってたわ。』
『はは。俺ホントはひさちゃんが本命だったの。だけどまぁ、若気の至りってか…いやこの言葉は使い方間違ってるわ、なんて言ったら…。まぁ彼女が欲しくて仕方ないお年頃だったんだよね。2年も前じゃないことなんだけどさ、あのときの俺すげー焦ってたってか、焦りでもないな、もうとにかく早く、って、性欲のカタマリ、って感じで。』
『うん。』
『とにかく彼女が欲しかったの。だからひさちゃんがダメなら、メグかなって…。』
『ふふ。まぁわかるよ。好きな気持ちより、彼氏彼女が欲しいっていう物欲みたいなものが先行するの。中学生にありがちじゃなかった?物欲ってのもなんか違うけど…。なんか酷くない言い方ないかなー。私なんか昔は彼氏以前に友達が欲しくてさ、マジ泣くほど欲しくてめちゃくちゃ苦労した。自分に、属する、自分が、属する存在が欲しくて仕方ない気持ち、って言ったらいいんかな。わかるよ、既に知ってるある人に対してどんな感情を持つか以前にさ、自分の中にある恋人用の空席、友達用の空席、頼れる人用の空席、とかに座らせる人間が欲しいって欲求だよね。』
『そうそう!それだよさすがひさちゃん!でさー、なんだかんだ上手くいっちゃってるんだよね。』
『お似合いじゃない?いや別にディスってるとかじゃないよ!リョウぴイケメンだからアタックしてすぐ付き合えたんでしょ?』
『まぁね。』
『好きじゃないの?』
『ううん、ちゃんと気持ちはあるけど今後どうなるかわかんねーってのが正直なところかな。』
『私あのときバカ正直に彼氏いるって言ったのめちゃ後悔してた!きゃはは。』

 夜風と波の音が、ひときわ大きく感じられた。私は照れくさいことが起こると、周りの環境音に知覚を避難させる癖があった。大抵、男との初めて、あるいはまだ馴染めていない接触のときは普段聞こえない音を感じている。服の皺が形を変える音を、1年半前にリョウの部屋で浴びた。リョウとのこのシーンから数年後に、私は男に抱きつきながら草木の騒めきと虫の音の振動を全身に集める。

『ひさちゃん。』 
 リョウは私の手を引いた。そのまま、私はリョウの鎖骨あたりに頭を乗せた。それからは——『浮気しちゃった!』の言葉の後のように、あらゆるブレーキが崩れ落ちていった。私たちは切なさと性欲のキスをした。耳介を甘噛みされ、首を舐められる。リョウは胸元に手を入れて、上に持ち上げて露出した乳首を激しく吸い、舐め回した。
『外だからダメー。』
 リョウはハッとして私の乳を仕舞う。
『もうみんな集まってるかな…。なんか2人で戻ったら変だよね。』
『先に出た私らでコンビニ行ってたことにすれば大丈夫だよ。アリバイ作りに行こ。』

 私たちは何もなかったかのようにコンビニへ向かい、皆と合流するまで、何事もない2人に戻った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?