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【記憶の石】16

 私は頭が悪い。とにかく頭が悪いことがコンプレックスだったのだけれど、高校のスクールカウンセラーには『でも、この高校に入れたのってすんごいことなんだよ。』と諭され、ちゃんといい大学にも入れてしまい、そして不本意ながら大学院にまで進んでしまったものだから、私は頭が悪い側の人間として生きていくことが許されなくなってしまった。進路を決めたのはもちろん自分だけれど、考える力がないから、次に進む学校がある限り進学する選択肢しか持てなかった。
 博士後期課程まで進んでしまったが、自分の学歴というタグと歩んできた過去の内容があまりにも不整合すぎて、胸を張って私はエリートですと言って生きることができない。本当に頭が良かったら、自分より明らかに勉強ができなさそうな人から250万円も搾取されたりしない。私は自分より点数が取れない人たちに負け続けてきた。私が出た大学よりはるかに偏差値が低いところの院生に弄ばれた。人間関係を、失敗しすぎた。恋愛の仕方がわからなくて、すんなりとセックスの相手になることで男の気を引こうとして、結果誰も私に継続的な愛着を持つことはなかった。セックスは愛し合う行為だって、性教育の本に書いてあったから、男と行為に及ぶたびに本当に自分は愛されていると思って舞い上がっていた。何度裏切られても目の前にいる相手には愛されていてこれからも会ってくれると信じて脚を開いていた。何度同じ困惑を体験しても、学習できなかった。

 私は信号が変わった瞬間を認識できない。色覚の問題ではなく、光が変わった瞬間がわからない。じーっと横断歩道の信号を凝視していても、赤から緑に変わる瞬間を捉えることができない。気づいたら自分の周りで信号待ちしていた人たちが歩き出している。信号を見続けていると光、色の変化がわらないので、信号待ちをしているときは視線を信号とその他の風景と交互に移動させている。これは大学に入ったあたりでやっと身につけた対処法で、パッと見たときに赤く光っていれば歩き出してはいけないし、再び視線を戻したときに緑に光っていれば、進んでいい。これで少し周囲とタイミングはズレるものの、青信号の前にいつまでも立ち尽くすことはなくなった。だが、信号の変化を察知できないのと同時に交通ルールを習得することが困難であると思われるので、私は運転免許を持っていない。人間は赤信号でその場に留まり、青信号で進んでよいということしか、私は知らない。おそらく試験の点数はとれるのかもしれない。しかし視覚的に状況を察知することが苦手なので、頭で持っている知識と身体の挙動が乖離するであろうことは容易に想像できる。信号を確認することだけで精一杯なのに、他のさまざまな標識まで理解しなければならないと思うと気が遠くなる。
 そう、私は人の流れをコントロールする印の類がものすごく苦手で、まず世の中のあらゆる「矢印」が見えない。どういうことかと言うと、例えば博物館等にある「順路」の案内板が私には見えない。道標が見えていないから、ガン無視状態で彷徨うことになる。スーパーやコンビニのレジへの並び方を示す足元の矢印、多くの店舗でそういった矢印が存在することは知っているのだが、その絵を見て指示通りに立つ、移動することが難しい。矢印だけでなく、人の列自体も認識できず、大きい店舗等の途中から二手に分かれるような列はあまりにも難易度が高すぎて恐怖感を抱く。人が列をなしていること、自分が着くべきその最後尾はどこなのかを知ることができず、『並んでるんですけど。』と他人から叱責を受けた回数は人生で数えきれない。
 方向を指すあらゆる矢印、見た者に何かを伝える掲示物、人の動作。私は日々多くの情報を見落としながら生きている。ベタな例えだが、疲れてどこかに座りたいと思って目の前にベンチがあったら、『ペンキ塗りたて』の紙が貼られていても座ってしまうと思う。『ペンキ塗りたて』と大きく書かれたその紙はしっかり視界に入っているのだけれど、意味がある文字情報だと認識できないのだ。
 ある日男の家でセックスしたとき、ブラウンの髪が1本、枕元に付着していた。相手の男より長く、自分より短かった。あのときに限って感覚が研ぎ澄まされていたのは、セックスの後だったからだろうか。目に映ったもので何かを知る、把握するという実体験に乏しい私は、あのとき限りは、毎日これほどの衝撃を受けて生きるくらいなら一生矢印なんか見えなくてもいいとすら思った。

 どうして私よりはるかに勉強ができない者たちが、あんなに複雑な野球のルールを理解できるのだろう。私は、球技であればサッカーとバスケしか概要を理解していない。細かいことはもちろん知らないが、これらはボールがゴールに入れば得点となるからわかる。バレーボールにはゴールが存在しないからわからない。ネットを隔てたボールのやり取りに、何が起こったら得点になるのだろうか。それに、いけー!とか、ヨシ!とか、選手たちは大声を出しているけれども、私には会話が成立しているように見えなくて、いや、成立しているのはわかるのだけれど、あの一声一声でどれだけの情報量をやり取りしているのかと想像すると恐ろしくなる。野球には——語彙が多すぎる。ニュース番組でスポーツのコーナーに移ると、しばらく日本語が聞こえてこなくなる。私には、サッカーやバスケ、バレーほど始終動き回っているようには見えないのだけれど、ときどき観客がウワーっとなる瞬間は一体どんなケースが引き起こしているのかまったく理解できない。おそらく、視覚に取りこぼしが多いので、あの小さなボールと複数の選手の動きを総合的に「観る」ことができないのだと思う。単純に速さを競う種目なら、水でも陸でも雪でも理解できる。ゴールにボールを入れてポイントを稼ぐか、誰が一等賞なのかを決めるかということでしか、勝負、ゲームというものを解することができない。そう、トランプもUNOも、私には難解な、高尚な遊びだ。

 私は賢くなりたくて、『頭がいい人は○○』のような書籍や、計算トレーニングの本などをたくさん持っている。私はコンプレックス商材のカモだ。でも、バカを気にしている私が知りたいのは頭がいい人の習慣ではない。私が習得したいと切望していることは、まさに生きる力だ。人間関係構築能力、秩序を乱さず歩行できる空間認識能力と方向感覚、視界の中に提示された情報を取りこぼしなくキャッチできること、メジャーな競技のルール、悪い人に搾取されないこと——もはや私が目指しているのは「賢い」ではないのかもしれないが、私が自分をバカ、無能だと評価するのはこれらがなっていないからだ。
 私は勉強面でも自分がものすごく秀才だとは思わない。難しい大学の入試は突破できる。その意味で勉強が「できる」人間だとは思っているのだけれど、高校まで学習してきたことが人生の糧になったことはない。例えば、日本史や世界史などは、解答用紙に適切な答えを吐き出すことはできるが、現実の世界で歴史に関する教養はない。政治経済に関しても、何も議論することができない。円安で嘆く人を、私は心底羨ましく思う。私には、経済が円安に傾いたところで何もダメージがない。だって理解していないのだから。
 なぜ試験だけはできるのかというと、私は机上という限られた視界で頭の中でスクリーンショットを撮るのが得意だからだ。教科書を丸ごと頭にスキャンして、試験の問題を読んで『これは○ページの左上にあったな』『この内容はもっと後ろのページにあった』と画像を取り出してそこから書き写すイメージで回答している。私は教科書の像を覚えているから、中の語句、文章をいちいち取り出して書き写しているだけで、自分の知識として解答用紙を介して採点者に披露しているわけではない。私が見えている世界は、せいぜい机の広さくらいだ。その範囲内なら画像の取り込みと文字情報の出力ができる。
 暗記科目以外ならどうするのかというと、それもほぼ共通して画像の暗記でやり過ごしていることになる。数学だって各種の例題のイメージを保存していて、画像を見て参考にしている。実は分数の計算ができないのだけれど、頭の中で料理に使う大さじ小さじの概念を思い起こして軽い証明みたいなことをしている。大さじ小さじの再現は、私のちょっとした儀式だ。計量スプーンのセットをイメージして、小さじ1/4の塩を小さじのスプーンに4回投入すれば、小さじ1の分量になる。さらにそれを3回、大さじのスプーンに投入すると、ピッタリ大さじ1の量になる。この安心感が重要だ。分数の計算ができないというより、これをしないと自分が何をやっているのかわからなくなるのかもしれない。
 こうして頭のいい人のフリをしてきたというか、タネ明かしをすればこういった手段で高校に入り、大学院まで進んできた。そして年齢を重ねるごとに、学歴と生きる力の乖離に悩まされた。人との関係や、自分自身の扱い方がわからなかった。
 人間というものは、そのオーラにどれだけの情報量を漂わせているのか私にはわからない。人の発言を、音声でもメール等の文字でも、その通りに受け止めることしかできないので、内容以上のことを察するのは不可能だ。さらに、「無言」という意思表示があることを私は15歳で知った。私は、自分が拒絶されているなら、婉曲ではなくストレートに受け取れる表現で打ちのめされないと永遠に理解しなかった。
 現代文が苦手な人は、想像力が豊かなのだと思う。紙面の情報しか信じなくて、頼りにしなくていいのは私にとって大きな助けになる。手がかりはここにしかありません、という紙の中の文章にだけ集中すればいいなんて、視野が狭く言葉の意味の範囲以上のことを察することができない私にはとてもありがたいことだった。

 情報がどこにあるか探し当てることができない現実世界で、私は長らく打ちのめされたいと欲していた。

『私まだあなたにフラれてない!!!!!!』

『死ね』『ゴミカス』とあまり意味のないおびただしい数の暴言の中に、まだ人間の、女性の形をした切実なメッセージを1通、送っていた。
 何百通の『死ね』に埋もれて、たぶん、届かなかった。


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