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【記憶の石】18

 久子は聖のことが「1番」好きだった。正確には、1番好きなことにしていた。どれだけ他の男と遊んでも聖という存在には勝てない、そういう建前にしていた。
 久子が2歳上の聖と交際を始めたのは21歳、大学4年生になった春のことだった。21歳——この年は、避けるべき出会いが重なってしまった。いや、出会うまではいいのだけれど、人生は、偶然と選択の組み合わせでできているわけで、飛び込んでくる偶然に対する選択を久子は悉く誤ってきた。久子は14歳の終わりにとんでもない人物と出会ってしまったことをトラウマ及びコンプレックスとして抱えているが、その事柄は事柄として、その後も新しく出会う人との関係を進めることを躊躇することはなかった。もちろん誰彼構わずということではない。久子は人を切り捨てることにも憧れがあった。昔、学校であらゆる人の輪から弾かれ、排除されていたように。仲間はずれにするのはどれだけ気持ちいいのだろうと久子は思っていた。あの楽しそうな拒絶をやってみたくて、不器用なりに人を無視したり突然音信不通にしてみたりはいくらか実行したことがあった。

 聖が、久子にとって見下して切り捨てる存在にならなかった理由は、彼の人を選ばないコミュニケーション能力にあった。天真爛漫なラッパー風。そのキャラクターは確かに楽しかった。聖には、久子に似たような知性の凹凸が激しい友人や障害者の友人、上にも下にも歳が離れた友人が多くいた。どんな属性でも分け隔てなく陽気に接することができるのは確かに彼の大きな長所だったと久子は思っている。もし聖が、久子の小学校にいたら久子の生い立ちは大きく変わっていただろうし、14歳の終わりに変な人に入れ込むこともなかった。
 ただ、全ての人間を自分の輪の中に巻き込むことができる反面、交際する女に対しては無意識に見下す癖があるらしく、日々のほとんどを共に過ごしている間、聖からの要求は凄まじく理不尽だった。

 聖と知り合ったのは、大学3年生の終わりに特に予定もなかったのでいくつか日雇いのアルバイトに行ったことがきっかけだった。ギフト商品の箱詰め作業やスマートフォンのテスト等の軽作業、スポーツ大会の補助等に出向いて日当をもらい、ささやかな贅沢のできる春休みを送っていた。3月に入り寒さが和らいできた頃、久子はあるチェーン居酒屋へ派遣されることになった。そこでは飲み放題で注文されるドリンクだけ、席に運ぶのが仕事だった。単発バイトにできることなど限られているが、ドリンクだけでも持っていってほしいというほど、確かに忙しそうではあった。
 チェーン店だが高価格帯のその店は働きやすく、店の人たちにも気に入られたので久子はその後も数回仕事の予約を入れた。日雇い派遣の現場をその日限りではなくリピーターになると何かと優遇されたりするのは経験上知っていた。店が0時で閉まるある日曜日、聖が久子に話しかけた。
『ひさちゃーん、始発待ち組みでちょっと飲んでかない?まだ終電間に合うなら帰っても大丈夫だけど。』
 この派遣先で「ひさちゃん」と呼ぶようになったのは聖からだ。久子は何かの社会に属するとそのうちあだ名がひさちゃんになる。派遣は終電に間に合うまでの約束だったのでまだ帰宅できたが、誘われるまま閉店した店内での宴に参加した。聖ともう1人のキッチン担当が余りの食材で料理を作ってくれて、他の従業員たちは各々で勝手に自分の酒を用意する。仕事中の雑談の流れで久子の誕生日が近いことを知っていた聖は、バースデープレート用の小さい花火を刺したデザートを出してくれた。
 派遣バイト1人を巻き込んで朝まで楽しめる聖がありがたかった。東京に来れば、生きているだけで無限に知り合いができる——久子はここでもそう思った。10代の頃、あんなに焦って、必死にネットで人間漁りしなくてもよかったのに。

 聖と恋人同士という関係になったのはそれからまもなくのことで、自然で良い出会い方が久子はとても気に入った。彼という人間ではなく、出会い方が理想的だった。久子は前にも「自然に」出会った相手がいたが、思い出すと全身がむず痒くなるので「元彼」としてカウントしない。聖のほうは、後に悪魔だとわかるのだが彼はしっかりカウントすることになる。3年も一緒にいた事実はなかったことにできない。聖は久子の歴史の登場人物であり続ける。
 美的感覚をねじ伏せようとするというのが、心の弱い久子の癖だった。聖はお世辞にも容姿端麗とは言えなかった。頭が普通の人よりひと回りもふた回りも大きく、大きなプリントを施したキャップでいつもゴワゴワで少し長い艶のない黒髪と共に押し込んでいるその頭が低身長の細い体に乗っかっているのがアンバランスなのを自覚してか、常に上半身はかなりのオーバーサイズを着用していた。久子よりも5cmほど背が高いけれども脚の長さはほぼ同じで、その忙しない足捌きで大きなネックレスをジャラジャラいわせていた。大きくエラと頬骨が張り出した顔はとてつもない面積で、その大きい顔の中にある目は小さく、しかし奥二重のそれらがやたらと光を取り込むのでもともと目が大きい人と同じくらい目にインパクトがあった。大きい顔にキラキラ、クリクリの目。その目は3年もの間久子を服従させてきた。
 単刀直入に言って、聖は美しくない。14歳のときに巡り会ってしまった男は頭が小さすぎたのだけれど、聖は逆だ。しかし、当時と同じように、『この人が私を救う』と信じてしまえば、世界一の美男子だと自分に言い聞かせてしまうのだった。自分に対して感性を偽ることがどれほど自己を蝕むのか、久子は異性関係のこと以外でも、これより少し後の出会いによって、何年もかけて学ぶことになる。

 春休みが明けたので、日雇い派遣のアルバイトからは遠ざかった。久子は大学へ通い、聖はずっとあの店で働いている。よく合鍵で彼の家に行ったが、生活リズムが真逆なのであまり会うことはなかった。久子としては、彼氏の家の合鍵を持っているということに酔っていただけである。聖が居酒屋の仕事で不在中、キッチンでせっせと料理をしていた。彼が帰宅したときに綺麗な料理が用意されていたら、それはそれは素晴らしいことだと思った。しかし聖はかなりの偏食で、久子の料理になかなか手をつけなかった。居酒屋のキッチンでは偉そうに料理の蘊蓄を垂れていたくせに、お飾り程度の小葱が乗っているだけで嫌がった。いちいち彼の味覚に合わせていると野菜嫌いの幼児を相手に料理をしている気分にはなったが、久子は彼氏の好き嫌いに対応することが「可愛い」ことだと無意識に感性を修正していたし、実際聖のほうも彼女の手料理という概念にはたいへんな憧れがあったようだ。いろいろと嗜好をヒアリングして試行錯誤した結果、毎日がお子様ランチで落ち着くことになった。

 聖との生活はセックスつきのおままごとだった。付き合って4ヶ月ほどで久子が下宿としているマンションに居着くようになった。聖はオーナーや管理会社と散々トラブルを起こしていた部屋を解約していた。さすがに男と住んでいるのが親にバレたらまずいなと思いつつ、そのときの久子は歓迎し、喜んだ。
 聖は1月分の家賃をずっと滞納したままで、久子が通っていた間も頻繁に管理会社の人と思われるスーツ姿の男が訪問してきた。聖は前家賃という制度が納得いかない、ちゃんと住めたから払うというのが筋だとわけのわからない不満を言いながら久子には一切のピンポンを無視するよう指示していた。聖はファッション感覚で大きな水槽に観賞魚を飼っていたが、水槽の大きさの割に魚は少なかった。まともに管理ができず次々と死んでいくからである。友人に見せびらかすため、死んでしまうごとにペットショップで買ってきた個体を「補充」してインスタグラムの華やかさを保っていたそうだがその気力も尽きたようだ。最後の1匹が死んだとき、用がなくなった水槽を片付けようとして部屋中を水浸しにした。自分が持てるくらいの重量になるまで洗面器で水を汲み、風呂場に流そうとしていたのだが誤って躓き洗面器の水がひっくり返った。舌打ちしながら、とりあえず水だけは抜こうとして足元が濡れたまままた水槽と風呂場を一往復したが一度水をひっくり返したことでやけくそになり、無謀にも彼はまだだいぶ水量が残っている水槽を直接風呂場まで持っていこうとした。ガラスではなくアクリルの水槽だったが本体だけで10kg以上もの重さがあるそれは台から降ろすことも困難であるのに、無理に動かそうとしてそのまま床にひっくり返った。
 聖は居酒屋への出勤時間が迫っていたためひとまず放置して出かけてしまった。数時間後、店のピークの時間帯に、急にあの惨状の片付けが面倒で仕方なくなり久子に電話した。

『いやー、マジウケんだけどさー水槽空にしようとしてひっくり返してさー。今どうなってっかわかんねぇや。管理会社から怒られたらヤバそう。とりあえず久子行ってくんね?』
 あの慣れた居酒屋のざわめきをバックに流しながら、ヘラヘラと電話を寄越してきた。久子は唖然としながら聖のマンションへ向かった。対応していたらもうその日のうちには帰れない時間帯だった。
 鍵を開けて電気をつける。水槽の一角が柔らかめの床に突き刺さった形でひっくり返っていた。聖はとりあえず行ってほしいと言っていたが、何をすればいいのか——ひとまず、下の階への被害はなさそうだった。いや、時間を経て何か発覚するおそれはあるかもしれなかったが、水の厚みが思っていたより新鮮だった。久子は家にあるありとあらゆる吸水性のものを床に敷き詰めた。バスタオルもフェイスタオルも全部使った。聖がDVDプレイヤーとして使っていたゲーム機は無事かどうかわからないがとりあえず棚に置いておいた。
 終電も、その日の自分の寝床もこれ以上水を吸えるものもなくなってしまったので、久子は歩いて30分ほどかかるドン・キホーテに向かい、寝袋とタオル数枚、雑巾を買って担いで帰った。8000円、かなり痛い出費となった。夜中にふたたび聖の部屋に戻った久子は新しいタオルを適当に敷き、水槽の独特な臭いを避けるためドアを隔てたキッチンの床に寝袋を敷いて3時間だけ寝た。何としても聖が帰宅するまでには帰りたかった。聖は浸水が心配で連絡してきたのではなく、自分で片付けたくなかっただけなのだ。おそらく片付けの出来は聖の期待はずれだったと思われる。タオルを敷き詰めまくっただけで丁寧に拭いたわけではないし、水槽の小石等の装飾品もひっくり返したままだ。水を被ったマットレスはもう使い物にならない。もし久子がいるうちに聖が戻ってきたら片付けの達成度に文句が飛び出してくるに違いないし、あわよくば新しいマットレスの購入だって久子に押しつけようとするのが目に見えていた。久子はこれで辛抱してね、という意味の寝袋だけ残して始発で帰宅した。そこからさらに1時間ほど仮眠したかったけれども起きれる自信がなく、仕方なく大学へ向かった。

 聖の部屋に出入りするようになったときの数から1匹に減るまで、久子は観賞魚については関知しないようにしていた。聖は一度久子が掃除や洗濯をやってくれると味を占めてもう二度とその家事をしなくなる。面倒なことをやってもらえてラッキーだ、という気持ちと、女性に尽くしてもらえる憧れの体験にいたく感動しているという2つの心情を久子はよく理解していた。久子は少し長かったこの人生の一場面を経てしばらく時間が、時代が過ぎても好きな男のために家事をするのは可愛いことだと思う。しかし、聖のための家事という行いに生じた違和感に無理矢理蓋をして3年過ごすことになるのだった。
 久子が一度でも魚たちの世話に介入したら、『ひさちゃん、今日もお願い☆』と言って聖はそれ以降絶対に面倒を見なくなる。久子は魚たちがこれ以上少なくならないために、守るために世話をしなかった。ずっと聖1人の仕事であるべきだと考えた。しかし魚たちの衰弱は止められず、また1匹いなくなるごとに自分が毎日聖の部屋に通ってでも面倒を見るべきか葛藤した。当然ながらそんな生活はできなかった。

 水槽の事件から少しして、聖は部屋を解約して久子の部屋に住むようになった。結局あのアクシデントは修繕費が生じることになったのかは定かでないし、発生していたとしても絶対に踏み倒しているし、面倒なので聞かないことにした。「転がり込んできた」という言い方も違うのだが、久子があるとき『毎日一緒にいれたらいいのになぁ。』と発言したことを大いに曲解し、久子の同居人となったわけである。前の管理会社はすぐに聖の移転先を突き止めてまたポストに督促状を入れるようになった。あるときから、中身が空の封筒が届くようになった。管理会社のラベルが貼り付けられ、「重要」の判子が押されただけの封筒が連日突っ込まれた。聖は『はー、ご苦労なこった。』と言ってまた屁理屈を垂れる。『借金て踏み倒せるんだよ?知らないの?』という台詞を何十回と聞かされた。空の封筒だけでなく、またいつもの管理会社の人が訪問するようになった。同じ人が鬼の形相でインターホンの画面に映るけれども、いい時間潰しになっているのだろうと、久子は申し訳ないながらも想像してちょっと面白くなった。この管理会社の人に自分の顔も覚えられたら面倒だと思っていたので、久子はのほほんと無視していた。天真爛漫で非常識な男が、音信不通にならず自分と深い関係になっている現状が貴重で愛おしくて仕方なかったのだった。



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