【記憶の石】③
トモは数学が得意だったのか、『受験が終わったら遊ぼう』ではなく『数学なら教えてぁげるよ↑』としきりにメッセージを送ってきた。少女は、その言葉自体にはそそられなかった。トモが在籍しているという大学は、自分が目指している高校から進学するには「負け組」に相当するレベルだったからである。少女の心を掴んだのは、トモからの強烈な興味、好奇心だった。
トモは見ず知らずの女子中学生である自分と、積極的にコミュニケーションをとろうとしている——少女は、携帯電話の絵文字の発展的な使い方をトモから学んだ。中3の2月は、毎日トモとやり取りをしていた。
『すみれチャンゎドコ住みなの?』
『○○ってとこです。めちゃ田舎⤵️⤵️』
『ならオレん家からそんな遠くないよ↑↑でも○○って、確かに田舎だねワラ なんかスキー合宿で行くイメージ⛷』
『今年スノボ行けてないから、入試が終わってまだギリギリ雪残ってるうちに行きたいです😝』
『すみれチャンが頑張ってるから、オレもタバコ🚬止めれるょうに頑張るょ💦受験終わったら遊ぼ↑↑』
タバコが吸える年齢の異性とコミュニケーションをとっていることに、少女はすっかり心踊らされてしまった。大人の男性から、こんなにも興味を持ってもらえるなんて——やっぱり同世代の奴らなんて、全っ然そそらない——受験があるのですぐにとはいかないが、トモの会いたいという欲求に応えるには一切の躊躇がなくなっていた。春休み中には、絶対に会いに行く。少女には決意ができていた。母親に街中へ車で送ってもらうための口実も考え始めた。そこでまた、まだ現実で友人がいないという障害を認識した。『○○ちゃんとジャスコに行く』という台詞を、母親は未だかつて少女から聞いたことがないのだ。
しかしそんな心配はもはやちっぽけなものだった。小学校の頃のおまじないが、今になってやっと効いてきた——少女は自分の忍耐を讃えた。ずっと存在が喜ばれず除け者にされていた自分は今、派手な成人男性と親密になろうとしている。車も運転するらしい。中学生でも高校生でも、さらに大学生でもない。大学院生だって——私が夢見ていたイケてる人間関係が始まろうとしている。もう、私のことが見えてないフリをする田舎の連中のことなんて、気にしなくていい、私にはトモがいるから——
高校の合格発表の日、掲示された79番を携帯で写真に撮り、真っ先にトモにメールした。トモとは既にゲームサイトを離れて携帯メールでやり取りしていた。ユーザー同士が外部でのやり取りへ移行することを、この類のサービスは嫌う。メールアドレスを打ち込んでいることを見抜かれないよう、数字を漢数字で伝えたり、アルファベットをカタカナで伝えたりなどの技を駆使してトモはメールアドレスを教えてくれた。
『おめでとう‼️さすがすみれチャンだね‼️㊗️🎉😆』
『よかったです〜〜😭✨安心しました❗️』
合格者だけがもらえる分厚い封筒を胸に抱き、カチカチとメールを打つ。少女はもうすっかりメールの早打ちをマスターしていた。
『これから親と買い物に行ってきます✊たぶん浮かれてなんでも買ってくれると思う⤴️⤴️ワラ』
『イイネ💓ご褒美になんでも買ってもらいな‼️😆』
散々違う角度から79番を撮りまくっていた両親を急かし、嬉しい買い物に出かけた。とは言っても、今夜の宴の準備のために大型スーパーへ行くだけであったが、少女は両親の浮かれ具合に乗って自分が垢抜けるためのアイテムをしこたま入手する魂胆でいた。
真っ先に肉と刺身の選定をしたい両親と離れ、併設のドラッグストアに向かいヘアカラーのコーナーに見入った。合格したらまずやりたいことは髪を染めることだった。少女の進学先は制服がなく、また校則も皆無で頭がいいのにチャラチャラしていることをプライドとしている学校だった。一足先に同高校へ進学していた姉はギャルのなり損ないのような格好で高校生活を謳歌していた。少女はピンクブラウンと称される系統のカラーを吟味していた。最後はストロベリーブラウンかローズショコラという色で迷った。ストロベリーブラウンに決め、次は化粧品のコーナーへ。少女は、濃い色のアイシャドウで下瞼を舐めるようにタレ目ラインを引くメイクに憧れていた。ブリトニー・スピアーズのように。アイシャドウパレットは最も濃い色に注目して選んだ。どれで下瞼をなぞりたいか。赤みがありささやかなパールを含んだ理想のブラウンが入ったパレットを選んだ。漆黒のアイライナー、マスカラは繊維が入ったロングタイプを。リップグロスはチェリー色を選んだ。
お会計に並んだ両親と合流し、ドラッグストアのほうで買ってほしいものがあると頼んだ。もちろん姉妹揃っての県内屈指の進学校合格に酔った両親は中身を聞かずに快諾した。でもお刺身とか、アイスがあるから手早くね!うん、もう決まってるから!少女は先ほどセレクトした品々を猛スピードでカゴにポイポイ入れ、母親に突き出した。合計6000円ほどのアイテムをゲットし、少女はトモがいる新しい生活に胸を膨らませた。
公立高校の合格発表の翌日、合格した者は午前中に中学校の体育館に集まることになっていた。少女はその用事から帰ったらすぐに初めてのカラーリングに挑戦することにしていた。ここで中学生のダサい自分は終了だった。これも少女の当時の幻想だが、華やかな人間は皆地毛ではなくカラーリングをしていると思っていた。
ストロベリーブラウン。パッケージの通り、赤みのある茶髪が出来上がった。出来立ての茶髪を乾かし、少女はさらに買ってもらった化粧品でメイクをする。これまでは休日のたびに100円ショップでかき集めたコスメで化粧をしては鏡に向かってため息をついていた。中学生なんだからやめなさいと散々母親から咎められていたけれども、この学校に合格してやったからには好きにさせてもらう。両親は友達の話は聞かないが次女が派手な変身に強い興味を持っていたことを長い間知っていたし、合格した暁にはきっとそうするのだろうと思っていた。次女の変身願望と、自分たちの名誉が叶えられるこの高校への受験を両親は心から応援した。年明けの模試で過去最高の成績を叩き出したとき、両親は少女を携帯ショップへ連れて行った。携帯電話が子供の成績への最大のご褒美だと思っていたらしい。
『お母さん、服買いに行きたい。』
車とお金を出してほしいということだった。トモとの初対面、その後の華やかな高校生活にあたり一番の障害は、交通の便が良い場所に住んでいないということだった。少女の住む地域は地下鉄のターミナル駅から山までを繋ぐ、スキーをしに来る人々が利用するようなコースのバスが1時間に1度は通っていて、「田舎」を自称するにはそこそこ恵まれていそうな条件ではあったが、本気でバスの時刻表に従って生活しようとすればまずバス停まで徒歩40分、もし間に合わなかったら1時間待たねばならない。バスは街からスキー場を一直線に繋ぐためだけにあったもので、実際に生活する人々にとっては使いづらいことこの上なかった。高校に入学したら、毎朝晩父か母の車で運ばれる姉と移動を共にすることになっていた。毎日親の送迎があるなんて、贅沢そうな話だがこの辺の家庭にはそれが普通で、それしかなかった。この集落の子供たちには、コンビニで買い食いすること、門限を破ること、それらができる環境というのは憧れだった。
トモとは春休み中にドライブに連れて行ってもらう約束をしていて、山から出るバスが到達するターミナル駅で落ち合おうということになっていた。バス停まで送ってもらおうが、駅まで送り届けてもらおうが、あるいはわざわざ1人で40分かけてまでバスを使おうが、少女は今後トモと関わっていくための出かける口実が上手く捻り出せるか自信がなかった。とりあえず今日のところは、私服の高校に進学するための準備として服を買ってもらうという立派な用事に集中することにした。
『今日ゎ服を買いに行くんです💓制服ない学校だからいっぱい集めなきゃ⤴️』
『エッ⁉️まぢ⁉️というコトゎ七高⁉️』
『そう!ナナこーです😆✨✨』
『えーめちゃ頭良すぎ💦オレ勉強見てぁげるよなんて言ってたの恥ずかしい‼😱️』
助手席の娘が手元でどんな世界を広げようとしているのか、少女の母は想像もしていなかった。少女は携帯電話のメールとゲームサイトを交互に操作していた。少年院上がり、水商売、メンタルヘルスに問題アリ——魅惑的な属性はたくさんあるけれど、私はトモと出会うことで何者になれるのだろう。そして、自分が弾かれず、求められる世界に彼は住んでいるのだろうか。そこで待っていてくれているのだろうか——
少女の母は、14歳は無表情で感極まることができるということを知らなかった。
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