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番外編 短編小説レベルに長いです。

2020年12月31日
もう1年の終わりか。

今年は、自分の人生を大きく変える1年だった。
いい意味でも悪い意味でも、心が大きく揺れ動いて、環境も目指すべきものも大きく変わった。


どこまで詳しく書いていいんだろうなぁ。
ちょっとネガティヴすぎることもあるけど、
とりあえず書きます。


20歳、法政大学2年生の夏に、私は法政大学を辞め、アメリカの大学生になる決意をしました。

法政大学にいたときの1年間、インターンをやったり留学をしたりバイトをしたりセミナーに出たり、とにかく誰よりも行動してきましたが、
それは前向きな行動ではなく、何もしてない自分でいると、なぜか巨大な不安や罪悪感や後悔に押しつぶされてしまいそうだから、その感情から逃げるためにやっていました。

人間関係を誰かと気づくのが苦手で、1つのコミュニティに長くいるのが苦手で、その言い訳をするためにいろんな行動して沢山の場所に所属して、人と深く関わらないようにしていました。誰とも連まず、1人で生きる日々。表面的に仲が良く振る舞ったりを頑張ってしてた時もありますが、自分はそんなに器用ではないので、相手から「玲奈にはどこか壁を感じる、心を開いていないよね」と言われた時もありました。

テンションが低くて、口数も少ない。
いつも何かを考えていて上の空、遊びに誘っても来ないし、大人数での集まりは行かないかすぐに帰る。よくわからないことばっかやっていて、
自分の感情や考えを外に話さない。
最悪に扱いにくい人間でした。

自分も、相手やこの社会に対してとてつもない壁を作っていて、日々の生活が楽しいわけもなく、ただ淡々といろいろなことをこなしながら時間だけが過ぎていきました。

このままじゃいけないとずっと思いながら、変わらないまま1年間が経過、大学2年生になってアメリカへ留学に行きました。

初めて日本以外の世界を見たとき、あーこれだと思いました。今の自分を全く知らない世界で、新しい自分として生きていきたい。なんとなくできそうなものではなく、絶対にできないと思うものをやってみたい。

そして、そんないいことだけではなく、その当時自分には最大のコンプレックスがありました。自分が本気で努力して努力して努力して、サッカーを犠牲にしてまで選んだ大学受験という道で、大失敗して、早稲田大学に落ちたと言うことです。
完全に学歴コンプレックスでした。それと同時に、自分を嫌いになる最大の理由でした。これを克服したいと、第二のチャンスとして早稲田よりもレベルの高いアメリカの大学に合格してやるという野望が生まれました。

そんなことをいろいろ考え、
アメリカの大学生になることを決めました。

そこからの2年間、自分の最大の目標はその学校で1番の成績を、オールAを取り続けて、世界最高峰の大学に受かる事になりました。
このためになら何でもやると、決意しました。

一切の無駄な時間を省き、すべての時間を勉強に捧げます。朝起きてから、夜寝るまで授業のことしか考えず、永遠と勉強していました。
わからない時はつたない英語で、必死に質問して、わかるまで延々とやり続けました。これはどうなのこれはどうなのと、いろんな人を捕まえて、知らない人を捕まえて、とにかく学びました。

早朝で図書館に行って勉強して、授業受けて、録音していたものを何回も聞き直してがんばって理解して、また勉強して、授業受けて、勉強して、授業受けて、、、
ほんとにそれだけしかしていなかった。
実は、サッカーをしているストレッチ中も、アップ中もワイヤレスイヤホンして授業の内容聞いていました。試合と練習の時だけ、イヤホンを外してサッカーに集中していたんですが、それ以外の時はずっと勉強していました。

コーチもチームメイトも、呆れていましたが許してくれました。まあチームメイトに関しては、許してくれたというか、あいつおかしいから関わらない方がいいって感じが強かったと思いますが。

トイレに行く時も、バスで移動する時も、必ずノートを持参して1秒たりとも無駄にせず勉強していました。

そんな日々の積み重ねがあってか、英語があまりできない日本人留学生の私は、1年間オールAを取り続けました。50人のクラスで2人しかAがいなかった授業もありました。現地で生まれた英語ネイティブの人と、私です。そのクラスの約9割は、英語ネイティブの現地人でした。



私が最初に通っていた大学は2年制です。その後、成績優秀な人のみが、3年生として有名な四年制大学に編入していきます。

9月に新学期が始まります。私の2年目は、2019年の9月からです。1年前と変わらず自分は勉強第一な生活をしていました。順調に、編入のためのアプリケーション書いて、提出。

アプリケーションも、誰よりも内容が充実していました。法政大学に行った時にやっていた活動をかけるので、自分には豊富にアピールできる点がありました。普通の人が大学の勉強に追われ、課外活動として何も書くものがないと悩む中、私は記入の枠に溢れる位、多くの経験をしていました。

スポーツが大いに評価されるアメリカで、何個もサッカーで良い結果を残しました。現地のセミプロフェッショナルチームでプレーしたり、とても名誉ある賞を大学からいただいたり、全米のベスト22人に選ばれたしました。

いろんな4年制大学から、サッカーでオファーがきましたが、1年前から自分が行きたいと思う大学を決めていたためすべて断りました。

学歴コンプレックスがあって、それを克服するために、サッカーや課外活動などで推薦されるのではなく、勉強で勝負したいと思っていました。


そんなこんなで、新年を迎え2020年が始まりました。11月に出したアプリケーションの合格発表は2020年の4月。それまでは引き続き勉強の日々を送っていました。



今年の2月に、なぜか恐ろしいくらい自分が壊れました。オールAのままアプリケーションを出し終わって、新年を迎えて、緊張の糸がほぐれたのかもしれません。


アメリカに来てから約1年半、死ぬほど大きなプレッシャーの中で生きていました。

失敗したらどうしよう、成績が取れなかったらどうしよう、怖い、辛い、そんな感情に押しつぶされながらも1年半駆け抜けてきたんですが、

今考えると、よく精神が保てていたなと、よく身体がぶっ壊れなかったなと思います。もちろん何度か体がおかしくなったりしましたし、精神が病んだことは何度もあったんですが、やることをやりきって次の日はしっかりと授業に行けるレベルでした。


でも今年の2月は、何か違いました。もちろんまだ合否はわかっていないので、気は抜けないですが、合否に置いて考慮される成績は基本秋までなので、冬の成績はいままでに比べたら気を抜いても大丈夫でした。でも、緊張の糸をぴーんと張って生きてきた自分は、緩める前に切れてしまいました。

疲れがどっと押し寄せます。1年半分の疲労です。精神の黒くて大きくて深い波が、自分を呑み込みました。まるで落とし穴に落ちたように、目の前が真っ暗になって、みるみる世界が黒くなっていきました。
気付いた時には、鉛のように重い身体を持ち、恐ろしい疲労に包まれ、精神的には絶望の果てにいる自分がいました。

自分で自分をコントロールできなくなって、涙があふれ続けました。急に、部屋の物を投げ出したり、自分を噛んだり引っ掻いたりしました。壁を何度も殴っていました。声をあげて泣いていました。
気づいたら携帯で、死ぬ方法を調べていました。
この自分を止める方法は死ぬことしかないと、本気で思いました。どんな方法が良いか、それを考えてるうちに眠りについて、目を覚ますのは次の日の夕方。
また同じように涙が溢れ出して、もうしないようにと昨日思っていたのに同じことをしてしまいます。そして気づいたら1週間、何かに取り憑かれたように同じことを繰り返し、コントロールを失いました。

そんな時、全く連絡を取っていなかった親からLINEが来ました。
内容はたった1行で、『おばあちゃんが亡くなりました。』と。

私の両親は昔から共働きなので、私はおばあちゃんに育てられました。最後に話したのは、私が年末に日本に帰ったとき。その時にはだいぶ弱っていて、認知症を患っていたので、私のことは覚えておらず、私の事を違う人の名前で呼んでいました。自分の幼少期に1番長くいた人に、自分の存在を忘れられるって辛かったです。

最後に質問しました、『ねえ、おばあちゃん。人生楽しかった?』って。そしたら、うーんまぁまぁかな。という歯切れの悪い回答をおばあちゃんがしたことを覚えています。

きっと、何か心残りなことがあったんだろうなと。何かに後悔していたんだろうなと、そう感じつつも、「そっか」とかだけ言って
アメリカに帰りました。

そんなおばあちゃんが、このタイミングで亡くなりました。それを聞いて、1週間コントロールを失って、涙が流れ続けた自分がふと、穏やかな笑顔になりました。ああ、おばあちゃん天国に行ったんだね、私も今から行くよ。って何故か思ってしまったんです。

そこから急に穏やかな心になりました。コントロールを失っていた自分が嘘のように、優しい自分が現れました。住んでいた家の自分の部屋をきれいに整えて、着替えて、自分の車に向かっていました。


時間は確か深夜だった。
手ぶらで車に乗った私は、行くあてもないまま車を走らせました。一般道を抜け、ハイウェイに入りました。日本で言う高速道路ですね。

アメリカは、運転でめちゃめちゃスピード出します。普通の速度で100キロは超えてて、みんな平均的に120.130キロくらい出してるんじゃないかな。
自分は無心で、誰もいない深夜の高速道路をスピードを出して走っていました。そして、深い深呼吸をした後ハンドルを右に切りました。

目を閉じた瞬間ドカン、という音とともにものすごい衝撃がきて、ああ、これで終わったと思ったのですが、全く身体に衝撃が走らず、10秒ほどして目を開けるとただただ、木の生えている柔らかい土の山に突っ込んでいました。

暗くて今自分がどんなところを走っているか見えなかったんですね。なかなかのスピードで突っ込んだので、車の右前側はほとんどつぶれ大破していましたが、
そういえばアメリカって、左ハンドルだった。なので運転席側は、マジで無傷です。と言うことで自分は、衝撃の時に首が前に行っただけで、後はどこも怪我さず、痛まず、ただ車だけが壊れました。

そしたらなんか、本気で死のうとして失敗した自分がすごいばかばかしくなってきて、大笑いしました。1人で永遠と笑っていました。

そしてその後は超冷静に、警察に電話してすいません1人で事故を起こしてしまいました。車が動かなくなってしまったので、レッカー車を持ってきていただけませんか。と頼み、いろいろ聞かれた質問にうまく回答して、車もう使い物にならないので売って、家に帰りました。



何事もなかったようにそこから、コロナになって日本に帰国するまでの1カ月間は、ただ何となく、ぼんやりと、やるべき勉強を最低限にやりつつ、平穏な日々を送っていました。


3月が終わり、4月になり、大学の合格発表の時期がやってきました。私は自信がありました。誰よりもやるべきことをやって、努力をしてきて、しっかりと結果ものこしてきたから。世界最高峰の大学で、世界の上位数%の人間しか受からない
最難関の大学でしたが、それでも受かる自信がありました。凄いな我ながら。笑

私の周りの人たちも、玲奈は確実に受かると思っていました。誰よりも努力してきたことを知っているし、そして誰よりも結果を残してきたので、本当に落ちる要素が見当たりませんでした。

4月17日、多分この日の朝のことを私は忘れないと思います。2年間、自分が行きたいと心から思い、それだけのために生きてきた、その大学から1通のメールが届きました。
震える手で、パソコンを開け、そのメールを開きました。受かるだろうと思いつつも、落ちてしまった自分はどうなるんだろうかという恐怖があったので、とても手が震えていました。

メールを開くと、その大学のエンブレムとともに5行ほどの短い文章が書かれていました。それを読んで私は思考停止しました。『大学側でしっかりと審議した結果、あなたをこの大学に受け入れることはできない。』と。
え?って声に出して、何度も読み返しましたが、合格したという言葉はどこにも書いてありません。

私は自分が1番行きたかった大学に受からなかったんです。2回目です。高校生の時に経験した大学受験と、アメリカの大学編入、どちらも誰よりも努力し受かると言われていながら、落ちました。

その後私は放心状態で、朝8時にメールを読んで、その場に座り込んで、気づいたら日が暮れていました。7時間以上ずっと、1ミリも動かず、ただその場に座り込んでいました。

でも不思議と、涙が出ませんでした。想像していた自分より、とても冷静で、自分が壊れてしまうんではないかと思っていましたが、とても穏やかでした。

その日だったか、その次の日だったか、急に連絡が途絶えた私を心配して、直接会ったことはなくてオンライン上でしか知らなかった彪と言う友達と、いちどだけ直接会ったことがあって、家に来たことがあるともという友達が、突然私の家を2人で訪れてきました。

チャイムがなって2階の自分の部屋から玄関を眺めると、同い年くらいの知らない男と、なんか見たことある気がする男が2人立っていて、私は『?????』って感じでした。いや、結構な恐怖体験です。笑

30分くらい放置してても全然いなくならないので、仕方なく目がパンパンには腫れた顔で玄関まで行きました。
えっと、、、誰ですか、、?
は、初めまして、、れいなです。。

といい言いました。2人は、おいなんだよれいなおせえよ!!って感じでハイテンションで話かけて来て、なんか無理やり家の中に入られました。

もう何なんだろう笑笑
てか何で家覚えてんねん。笑
2人とも東京の反対側に住んでる人なのに、会ったこともない横浜の端っこの人の家に突然押し掛けるってどーゆーこと。笑

そうして、私が鬼テンション低くて黙ってる中、2人は話し続け、家にあったボールを勝手に取られて公園に連れて行かれ、そのあと飯に連れて行かれました。
私の頭の中は、大学に落ちたショックと、目の前で繰り広げられる訳の分からない行動についていけず、終始???でしたが、なんかそのおかげで、すべて吹っ切れた気がしました。

2人は、私を心配して、私から話を聞くわけでもなく慰めるわけでもなく、ただ横にいてくれました。わざわざ東京から来て、無言の私の横でゲラゲラ楽しそうに話しながら、夜になってじゃあねって帰っていきました。

本当に、心から感謝しています。
本当にありがとう。自分は救われました。


そうして、5月になり、6月になり、時が経つにつれ、1番行きたかった大学に落ちたというショックは徐々に薄れていき、前を向けるようになってきました。

自分の人生を賭けた戦いが終わり、心に余裕ができてきた私は、視野が広くなって、今まで周りにあった優しさに気付けるようになりました。

周りを見渡すと、私には、自分が気づいていなかっただけでたくさんのつながりがあって、たくさんの人に愛されていました。たくさんの仲間がいて、大切にしたいものがたくさんありました。


新しいものに挑戦してみたいなと思って、絵を書き始めました。新しいものに触れてみたいなと思って、音楽を創り始めました。
旅行したり、美術館に行ったり、お酒を楽しんでみたり。

仕事の関係ではなく、インターンの内部の人でもない、ただ純粋に友達、仲間と言う人たちと過ごす時間はとても幸せだと感じるようになりました。

やはり自分は、ビジネスが好きで、インターンとうものもやりつつ、充実した夏を送り秋になりました。

9月からは大学3年生として大学に通う予定でした。自分の1番行きたかった大学に落ちて絶望していましたが、それ以外の大学には全て受かっていました。それ以外の大学も世界的に見たらとても有名で、世界最高峰と言われる大学の数々です。

今思うと、よくやったな自分と思います。勉強あんま得意じゃなかった自分が、努力だけで世界最高峰の大学に受かったんですから大したもんです笑



でもなぜか、もういいやと思っていました。投げやりとかあきらめとかそういうマイナスの気持ちではなく、自分の根本にあった学歴コンプレックスがなくなっていました。あそこまでやって無理なら、自分には他の道があるかもしれないなと思うようになっていました。
本気で努力した結果、失敗したことで次に進もうと思いました。

もっと広い世界に目を向ければ、いい大学に行っていい会社に入っていい年収を得て良い生活をする以外に、自分にとってもっと面白いものがあるんじゃないかと。

もしこれが、なんとなく手を抜いて勉強していて落ちた結果だったら、まだ自分にはやれることがあった、自分はまだまだこんなもんじゃない、そんな風に思って引き続き、敷かれたレールの上で高学歴競争をやっていたと思うんですが、本気で全力でやり切ったので何か超スッキリしました。笑


ということで私は、9月から3年生として大学に戻らず、新しい自分を探すために別の行動し始めました。

休学という扱いになっていますが、99%の確率で今の大学には戻りません。また学びたくなったらいつかアメリカに帰ります。

そこからは、ビジネスコンテストに応募したり、インターンしたり、起業家プログラムに応募してみたり、Twitterでいろんな人と出会ってご飯食べに行ってみたり、日本酒のお店で働いてみたり、アーティストとして自分の絵を売ってみたり、大学で授業してみたり、たくさんの本を読んでみたり、いろんな人の相談に全力でのってみたり、


心の赴くままに、誰にも縛られず、自分を縛らず、やりたいように生きていました。


そしてその中で、自分が得意なこと、人よりもできることがある事を見つけました。多くの行動してきた中で見てきた世界や経験の中で培ったセンスが自分の中にもあると言うことを知りました。

なのでこれからは、社会の作ったルールに縛られず、自分が1番生き生きと輝く道を自ら見つけ歩んでいきたいと思います。



本気の努力をしなければ得られなかった知恵や経験が、今の自分を作ってくれました。

本当にお疲れ様自分。



とてつもなく長く書いてしまって、何か短編小説みたいになってしまいましたが、2020年は自分の中で1番激動の年でした。

たくさんの涙と、苦しみと、喜びと、出会いと、学びがありました。

たとえ自分が何歳になっても、この年が自分を大きく変えたきっかけであると思い続けると思います。


今年私に出会ってくれた人たち、そして昔から私を知っていて応援してくれた人たち、支えてくれた人たち、本当にありがとうございました。



来年の抱負に関しては、今日の夜にでも発表します。そして皆さんへの、報告も今日の夜にでも発表します。



今から、来年の計画と発表の文章書きます。やばいやばい時間ない、頑張ろう笑


とにかくすごい1年でしたお疲れ様!!!


 

この分量を、1時間位で書いたの凄くないですか、10000字ぐらいあると思うんですが、私もしかして卒論書いたら2時間で終わるんじゃない?笑
うそですごめんなさい、難しい事は知っています、同学年のみんなが卒論で苦しんでいるのに軽率な発言をしてしまい大変申し訳ございません。笑





また夜に会いましょう。

最後まで読んでいただきありがとうございました!