みんなちがってみんないい
先日、長男が軽くイライラしながら帰ってきた。
お友達から「自分を抑えられるようになってきたから、もっとできるようになりなよ」とアドバイスをされたのだという。
長男は、ようやくできるようになってきている今、まだ先の事は分からないのもあり「無理、できない」と答えたらしい。
すると、お友達から言われたのだという。
「何でやる前から諦めるの? もっと頑張りなよ!」
自分の気持ちの通らなさに、自分では頑張っているという気持ちから、長男はその場から逃げた。
そうしないと、爆発しそうになったからだという。
私から見れば、アドバイスをしてきたお友達も正しいし、爆発しそうになったから逃げた長男も、正しい。
ただ、お友達から見れば、せっかくほめてアドバイスしてあげたのに、無理と一蹴してその場から逃げ出した長男の事は、正しいとは思えないだろう。
だって、そのお友達にとっては、それが「正しい事」なのだから。
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「正しい事」を振りかざすと、振りかざされた方が「悪い事」となる気がするのは、なぜだろう。
物事をいろいろな角度から見れば「正義」というものは多種多様に存在する。先日の出来事のように。
だが、大多数が「正義」を唱えると、あっという間に集団内に伝染し、正義の的になった方は「悪」となってしまう。
かくいう私も、過去何度も正論を振りかざされたことも、振りかざしたこともある。
どちらも体験すると分かるのが、正論というものは振りかざすととても「気持ちがいい」のだ。
なぜならそれは「正しい事」だから。
正しい事を言う自分は、誰からも「正しい」と褒められているような気分になり、正論を吐くととても偉い人になった気分がする。
そして、逆に振りかざされた場合、自分が悪い事をしていようがしてなかろうが、とても気持ち悪い。
「なぜ、こんなに言われなければならないのだろうか」
「そんなに悪い事をしてしまったというのか」
「この人は、そんなに偉い人なのだろうか」
そのような思考がぐるぐるとまわり、頭の中が真っ白になる。
結局、いやな気持を抱えたまま謝るか、その場から逃げ出すか、くらいしか選択肢は存在しない。
納得がどうしてもいかなければ、第三者に判断をゆだねることもできるけれど、頭が真っ白になった状態で、その判断はなかなかできない。
その正義酔いによる気持ちよさ、振りかざされた気持ち悪さは、大人でも体感するのだから、子どもはもっと顕著に表れる。
いじめの原因の一つに、この正義酔いが存在するかもしれない。持論だけど。
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じゃあ、どうすればいいのか。
正論を吐くことは大事だ。何が正しいのか、自分の中のルールがあるというのは、これから生きていくうえで重要だからだ。
価値観、とも言う。
だが、正義を振りかざすばかりでは、その正義に振り回されたくないために誰もよってこず、孤立してしまうかもしれない。
逆に、逃げてばかりだと、同じように孤立してしまうかもしれない。
己の正論を吐きだし合い、認め合い、妥協点をすり合わすことができれば、それが最高だ。
それができなくとも、人にはそれぞれが持つ「正義」が存在していることを認識するだけでも、違うような気がする。
人の正義と、自分の正義。どちらも正しく、そして間違っているかもしれない。
そう認識することが、正義酔いを予防できる酔い止め薬になるはずだ。
正義の名のもとに! とかいうと、とてもかっこいいけれど、とてもかっこ悪いということも教えていきたい。
正義と悪は、表裏一体なんだもの。
みんなちがって、みんないい。
金子みすゞさんは、とても良い言葉を残していらっしゃる。
うちの標語にしようかしら。
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