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他人の適温。

「熱っ」

私は可愛いげのない声と共に、反射的に身体からシャワーを離す。
そして、憎き客人の顔を思い出していた。

家主が越してきてから一度も触ったことのない温度設定のレバーをいじったのはこの客人で間違いない。言い切れる。

客人にはもう少し適した名前をつけてあげたいけれど、上手く説明できる言葉が見つからない。
世間一般から見たらとてもシンプルにまとめることができるとは思う。

狭い浴室の中で何かをしようとするごとに、ふう…とため息が漏れた。私は軋む身体を支えきれず、床に座り込む。
健気にも来客の予定に合わせて部屋中磨きあげているので、きっと大丈夫。そもそも私は潔癖とは対極にいるような人間なのだから。

この辺だったか、というあたりまでレバーを戻し身体を流したが、元の水温には戻っていない気がする。何が正しいのか、わからなくなってしまった。床についた膝は赤くなっている。

やってしまったことは消えない。
元に戻ったように見えているとしても、それは外側だけで、本当の意味で元通りになることなんてないんだ。
それとこれも同じようなことだよな、と働かない頭で考える。

帰ってからも思い出させないでほしい。
また急に腹が立ってきて、身体の水滴を拭ききらないうちに、何も纏わずリビングへと向かい、窓を開けて空気を入れ替えた。私は彼がいた痕跡があっても何ひとつ困らないのに。

半裸のままディフューザーに水を注ぎ、いつもより多めにエッセンシャルオイルを振りかざす。
爽やかなユーカリの香りは、私の澱んだ気持ちをますます底に沈めるだけだった。

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