ホームレスの人に「今日はもうお金いりません」と言われた話
数年前の事です。 朝8時頃オースチン(テキサス州オースチン)のダウンタウンで写真を撮っていた時、ホームレスの人に「朝食代をもらえますか?」と声をかけられました。
あいにく財布を持っていなかったので(夫が調度ダウンタウンのテレビ局に用事で来ており、財布はテレビ局に置いて来てしまい、携帯していませんでした)「今お金をもっていないので差し上げる事はできません」と言いました。
テレビ局に戻って財布をバッグに入れ、再度同じ場所に行き朝食代を渡そうとしましたが、彼はもうその場所にはいませんでした。 お金を持って来るので待っていて欲しいと言うべきでした。
ですので、他のホームレスの人にお金を渡そうとしたら「今日の分はもう他の人からもらいましたので、結構です」と断られました。 目頭が熱くなりました。
車椅子に座っていた身体の不自由なホームレスの老人に、コーヒーを買って届けていたホームレスの人もいました。 込み上げて来るものがありました。
彼らが路上生活者になった理由はそれぞれあるのでしょう。精神を病んでいる人もいるし、人との接触を避けたい人もいるし、再度自立したいけれどその手段がない人も。ドラッグ中毒になりホームレスになった人もいるでしょう。
彼らの心の中は覗く事は出来ませんが共通して言える事は、わずかばかりの食べ物で一日一日を凌いでいると言う事。彼らには「今日」しかないんですね。
路上生活者への金品援助には、あらゆる意見があるようです。
偽善だ、人の目を気にしてやっている、自分がいい気分になりたいだけだと言う人もいます。
偽善だという人は、本当の善を知っているのでしょうか?
例えば家族や友人へのプレゼント。欲しいかどうかわからなくても、相手の喜ぶ顔を見たくてあれこれ考え、あちこち探しまわってプレゼントを買いますよね。一方的な気持ちかもしれませんが、友人が「ありがとう」とほほ笑んでくれると、幸せな気持ちになります。
もらう方も、たとえプレゼントが自分の趣味に合わない物でも、自分の事を考えてお店まで出向き時間をかけて選んでくれた事を嬉しく思いますよね。
それは偽善でしょうか?
たった一日を凌げるだけの金銭を、たまたま見かけたホームレスの人にあげたいと思うのは偽善でしょうか。人の心の中は覗けないのでわかりませんが、「将来の事まで考えてあげる事は出来ないけれど、今日一日だけでも凌いでほしい」と純粋に思ってお金や食べ物をあげる人が殆どだと思うのです。
我が家の近所には路上生活者はいないし、直接手を差し伸べる事機会もあまりありません。ですので支援団体を通して援助しようと思っています。わずかばかりですが、支援団体に寄付をしました。
路上生活者だけではなく、動物も。
我が家の猫ハーシーは、シェルターにいた時は感染症で目がふさがっていました。目の手術を受け、視力が回復しました。保護団体が寄付をよびかけて手術代を集めてくれたお陰です。恩返しの気持ちもありますが、わずかばかりですがその団体に寄付を続けています。
これを読んでいる方もそうだと思いますが、路上生活者にお金や食べ物を上げた事や、慈善団体への寄付の話はあまりすすんでしたくないものですよね。
あえて言う事ではないし、心のどこかに「偽善者だと言われたくない」という思いがあるからかもしれない。
自分でも「善」なのか「偽善」なのかわかりません。
でも、「今日一日でも凌いでほしい」というシンプルな思いを、まわりが「善」だの「偽善」だの、とやかく言う事ではない気がします。