世界を見つめる解像度 -「祝福する力」-
さて、先日書いたこちらの記事の続き
「(誰かにとっての)何気ない朝」を「(自分にとっての)特別なワンシーン」に切り取って描写するためには、3種類の力が必要
ひとつめ
「知る力」絶対的な知識量
ふたつめ
「紐づけて使う力」情報に関連性を持たせどこで使うか
みっつめ
「祝福する力」この世界を見る視線
みっつめ「祝福する力」について。
世阿弥の残した言葉に、
「花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり」
とあります。
「珍しき」も私たちが日常で使う「珍しい」とは違います。「珍しき」というのは「愛ず(めず)」、すなわち愛らしいことであり、そして「目連らし」、目が自然にそちらに連れられていくことです。 いわゆる珍しいものや珍しいことは、二回目には当たり前になり、珍しくなくなります。そのような珍しさは「花」ではない。世阿弥のいう「珍しき」とは、まったくふつうのことの中に「あはれ(ああ、という感嘆)」を感じさせることです。
ー 能 650年続いた仕掛けとは 安田登 著 ー
祝福するとは、世阿弥の言う「珍しき」を
どれだけ自身が日常に感じられるか、
ではないでしょうか。
どれだけ心穏やかにいようと思っていても、
生きていれば、嫌なことも悲しいこともへこむことも腹の立つことも、あります。
それでも、朝はやってくるし、お腹は空くし、笑うことができる。
道端に咲く花は昨日とは開き具合を変え、
傘を打つ雨の音はひと時として音を違え、
遠くに聞こえる鳥の声はあっという間に空へ消えていく。
ああ、きれいだな、と。
どれだけ内にたくさんのものを抱えていようとも、
何かに向き合うとき、
心ひとつ、そこに向かう。
そこに身ひとつ、心ひとつで向き合ったあとの、
再びの日常のなんと愛おしいこと。
ああ、なんと世界は美しいもので溢れているのだろう、と。
一見、醜いとされる感情も、喜びに満ちた思いも、
すべてが縦糸と横糸になって、
織られたこの世界は、
なんと鮮やかで
なんと潔く
なんと尊いものでしょう。
過去へ明日へ
たったいま、この瞬間へ
呪言を贈る。
そんなことを、
ここに置きたいと思うのです。
それが、
生きている
ということだと思うのです。
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