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正常性バイアスだとしても思考メモを残しておく

正常性バイアスが発動している。

それはわかった上で、今私が思っていることを、少し記録しておきたいと思ったので、ダラダラと言葉に落としてみる。

普段政治に興味を持ってる私

ロシアとウクライナの間で問題が勃発した。
そのことについて、普段政治に興味を持ってる私はどう思うのか?
というようなことを、数人に聞かれた。
私がこの問題そのものにうまく興味を持ててないというのも大きくて、なんだかこの質問にうまく答えられない。
"政治に興味を持ってる私"というのがよくわからないというのもあるし、「そう聞くあなたはどう思ってるんですか?」と聞きたくなるというのもある。

私には日常の中で私が抱えている問題があって、それはどうやっても政治とつながる。だから政治に注目しているというのがある。
こういった外国の状況というのは、なかなか自分事として捉えにくくて、興味があるかと聞かれると、まずその時点で少し悩んでしまう。
ただ、その中でも政治の仕組み自体がおもしろいなと思うようになった部分もあって、今もこの問題そのものよりというより、この状況下における今の国の政治の仕組みの方に、どうしても興味がある。

もちろん、この問題について知らなくていいと思ってるというわけではないし、考えてないというわけではない。
今実際にこの世界の中に理不尽に傷付けられている人がいるとか、その人の周りにまたたくさんの大切な人がいるとか、
むしろ対岸の火事みたいな話ではなくて、いつこちらに火が飛んでくるのかわからない状況だとか、
そうなった時に、自分の大切な人が傷付いたら、いやむしろ軍人として戦う側にならないといけないとしたら、なんなら自分自身が誰かを傷付けないといけない立場にならないといけないのだとしたら、とか、
そういうことはもちろん考えるし、ここ数日は本当にそういう情報がいっぱい入ってくる。
でも、それは受け止めるにはあまりに辛く、なんだかまだ自分事として捉えることができずにいる。

そういう国際情勢だったし

一方で、この問題に対してというところで聞かれると、「まぁそういう国際情勢だったしなー」と冷めた見方をしてしまう自分もいる。

中国の習近平さんも、ロシアのプーチンさんも、朝鮮民主主義人民共和国の金正恩さんも、もう何年も前からずっとその立場にいるし、その中でアメリカ大統領がトランプさんになりバイデンさんになり、その中で日本はずっと自民党政権で、首相は安倍さんから菅さん岸田さんと変わってきている。

このところ、地球のエネルギーをどうするのか問題は世界中で話題になっていて、その中でドイツは脱原発を掲げて再生エネルギーへの投資を進めてたけど、実際のところはエネルギー量が安定せずにロシアの天然ガスに頼らざるを得なかった。それもあって、ドイツはここ数年ロシアに強く出れなくなっている。そのEU諸国の足並みの悪さやバランスの悪さの隙をつかれているようにも見える。

中国が経済的に台頭してきたことにより、アメリカと中国の関係はここ数年悪化している。トランプさんが「アメリカ一番!」を貫こうとしたけど、むしろアメリカと中国は"価値観の違い"という部分での対立が明確化してる。もはや経済的な戦いとかそういう問題ですらないらしい。そんな中で、国際社会のバランスは、アメリカと中国を中心に大きく変わってきているようにも見える。

ロシアは実は経済的にはそんなに豊かではない。もちろんウクライナに攻め込むことがいいとは一ミリも思わないのだけど、隣り合う国との関係の中で、どうしても不安要素は年々高まっていて、不安な時に攻撃に出るタイプの指導者がトップにいて、そういうトップを選び続けているロシア国民がいるのも事実だ。
もちろんロシアは不正選挙の話題に事欠かないから、それが国民の意思だと単純に言える話ではないのだろうけど、プーチンさんが選ばれ続けているというのは、こういう可能性があるという事でしかないじゃないかとか、正直思ってしまうところもある。でも、それも国内事情や国際事情を考えると、仕方のない選択肢だったんだろうなとも想像する。

ウクライナについては本当に知らなくて、展覧会の絵の舞台としてのキエフを思い出すというくらいで、しかも実際にはモチーフとなったキエフの大門があるわけではないらしいとか、本当にそれくらいしかわからないのだけど、でも一つだけ言えるのは、ウクライナはウクライナという一つの国として独立している国であるということだ。

そんな中で、日本の外交は首相を中心に外務大臣や外務省が担当していて、いろいろ思うところはあるけれど、私は自民党の外交政策についてはそこまで批判的ではない。
そして、これは同じように思ってる人はわりと多いんじゃないかと思ったりもする。内政についてあちこちから文句が出ても自民党が政権を取り続けている背景に、この外交政策へのなんとなくの信頼感みたいなものはある気がする。それは、外交が"関係性"であって、関係性には継続が重要であるというような感覚がベースとして存在してるからだとも思う。

実際のところはわからない。わからないし、彼らは常に国民というよりは外国を見ている。だからなんというか、国民の声を反映するというより、国際情勢を見て国民生活に影響が出ないように外交を行うということを使命だと思っているんじゃないかと思うから、私の普段の生活の感覚で外交をどう見るのかというのとは、そもそもがちょっと離れ過ぎてる気もしていて、国民として声をあげる、というのが難しいなとも思ってしまったりする。
もちろん、一人の個人として戦争には反対なのだけど。

ただ、ロシアとの北方領土問題をどうするのかとか、韓国との竹島問題をどうするのかとか、中国との尖閣諸島問題どうするのかとか、朝鮮民主主義人民共和国からボンボン飛んでくるミサイルをどうするのかとか、そこに対して、私はどういう意思表示をできるんだろうかとか、そういうことはよく考える。考えるけど、いつもそこについてはもっと上手な方々にお任せしようというところに至ってしまう。
何せ私は、根回しとか交渉とかそういうのが本当に苦手な人で、真っ正直なものを真っ正直にしか受け止められないし真っ正直にしか出していけない。苦手過ぎて言えることなんて、「戦争は嫌だ」「争いごとは嫌いだ」くらい。そこは声を大にして言うけれど、それすら誰かの何かの思惑に掬い取られるような気もしてしまって、いつも言葉にするのを躊躇してしまう。

私にできることは、私に見える社会の姿を伝えて、問いを投げかけて、それで真正面から人を育てることでしかなくて、その中でそういう交渉事が上手な人が出てきてくれて、うまいことやってくれたらいいなとか、本当にそういう風に思ったりしている。

子育て政策だって政治の一丁目一番地

私の推し議員であるたーたん(伊藤孝恵参議院議員)は、「子育て政策だって政治の一丁目一番地だ」と言っている。
これについては、私も本当に心からそう思っている。

子育て政策を充実させなければ、子どもがいる現役世代はしっかりと働けないし、子育てしたい人はどんどん減っていって生まれてくる子どもも減っていくし、そんな中で生産性高く働けるこれからの時代の人財なんて育たないし、その結果としてこの国の経済はジリ貧になっていくし、なってるし、経済的な豊かさがなくなっていったら資源のないこの国は、国際情勢の中で切れるカードが減っていくわけだし、実際減ってる。
一触即発の状況ではあるけれど、だからこそ危機感で煽るんじゃなくて、ちゃんと社会全体で子ども達を育てていくことで、子ども達を支える大人たちを育てることで、その先に明るい未来が待っていると信じたい。
私はそう思っているから、この国際情勢の中でも、子育て政策を中心に政治を考えていきたいし、そういう政治家を応援したいと思っている。

少し前にも、国民の代表を誰にする?という選挙があったわけだけど、そこでも外交は多少話題にはなったけど、でもやっぱり政治は外交だけじゃない。
だから、私はそれ以外の争点で選挙に注目するし、それが間違ってるとも思わない。

今回の問題が、生活の基盤がひっくり返る可能性がある「大きなこと」だというのはもちろん否定できない。それくらい影響力の大きなことだと思う。だから外交に関わる仕事をするということは、多くの影響力を持つ誇り高い事だと思ってる議員さんや官僚さんもたくさんいると思う。
でも、子育て政策だって日常をひっくり返る可能性がある「大きなこと」でもある。子育て支援が届かなかったことで子どもが親に殺されてしまうといった出来事は、この国で毎日のようにたくさん発生している。
失う命の数で言うと、もしかしたら戦争よりこっちの方が多いのかもしれない。もちろんそれは戦争を肯定しているということでは絶対にない。
ただ、「大きなことが起きている」という事は理解しているけど、そこだけに注目するという事がどうしてもできない感覚があるし、それこそこういう状況だからこそ、環境政策こそが一丁目一番地という人がいてもいいと思う。

うまく言えないんだけど、こんな時だからこそ、目の前の暮らしを大事にしたい。どうしてもそう思う。
もちろん、正常性バイアスが発動しているという自覚は持っている。

プロレスと争いの正当性

少し前に、関わってるPTAの改革をどう進めるのか、という話になった時に、一緒に改革を進めている仲間が、少し乱暴な進め方を取った。
改革内容は私も異論ないんだけど、そのやり方は反発しか生まないからやめてほしいと、私も真っ正直に反抗して、実際うまれたたくさんの反発を宥める役回りを担うことになったのだけど、ある瞬間に「あ、これプロレスだ」と気が付いた。

本当にどうにもならない状況まで来ているPTAの現状を見ず、そのままやり過ごしていこうとしている人たちに対して、反発を生んででも自分の意思を出してもらう。そうでもしないと話し合いが始まらない。
実際、反発の意見が届くと同時に、それまで届かなかったたくさんの小さい声もしっかりと届くようになった。やっとみんなが声をあげてくれるようになった。
ある瞬間にその意図がわかってしまって、途中からそのプロレスに乗っかってしまった。

こんな小さいところにも「争い」の正当性みたいなものが潜んでいる。
「争いは嫌だ、もっと丁寧にやるべきだ。それには時間がかかるけど仕方ない。そういうものだ。」と、どんなに叫んでも、一方でその丁寧なやり方を繰り返しているだけでは変わらない仕組みそのものも存在して、本当にそれに向き合うにはあまりに私たちは忙しすぎたりする。
その積み重ねでPTAの改革が進まない状況を何年も見てきているから、ある種のプロレスの必要性すら、わかる部分はあると思うようになってしまった。
あぁ、鬼になってしまった。

もちろん、プロレスと戦争は違うのだけど、それでも、やっぱりプロレスは嫌いだ。
こういうプロレスが好きな人っているけど、私はどうにも苦手だ。

それならもっと前からちゃんと丁寧にやっておけばいいだけじゃないか。それをできなかったからといって、戦いを生んで軋轢を生んで分断を生んで人を傷つけて、それで出てきた意見を主体的な意見として掬い上げるというのは、やっぱりどうしても違うんじゃないのか。

そのために丁寧な積み重ねをしていくことが、生きていくという事だし、そうやってもがき苦しむ日々の中にこそ、生きている実感を得られることがたくさん潜んでいるとも思う。
だから、今日もできるだけ丁寧に目の前のものに向き合って、面倒なこともたくさんあるけど、なんとか踏ん張って積み重ねて、私は生きている。
そう生きていきたいと願っている。

と言いながらも、私も随分と雑な手段で押し通しちゃうこともあるから、日々反省ばかりではあるけれど。

声をあげなくていいというわけではない。もちろん声はあげていく。
でも、目の前の自分の日々に必死に向き合う事が、最後の最後、こういう問題をなくしていくんじゃないかと、そう思いたい気持ちが日に日に強くなっている。

なんだかここ数日こんなところをグルグルとしている。

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