ここにいる私だけが私じゃない

年度替わりの引き継ぎが、あれもこれもと押し寄せてくる4月。
去年とはまた違う形で、いろんな役割を引き受けることが決まってきて。
それはそれで、またおもしろいことになりそうでワクワクしてるのだけど、それでもなんというか、どんな肩書きを得ていっても、どこにも属しているという感覚は芽生えないなぁ。とふと思う。

所属意識ってなんなんだろう。なんのためにあるんだろう。
最近ちょっと気になってるテーマのひとつ。

そういえば、昔から友だちのグループのどこにも属している感覚がないまま暮らしていたのを思い出した。
いろんなグループの子と、個としてつながって仲良くしてたから、私の仲いい子はいろんなグループにポツポツといる感じで、全体でグループを組んでと言われると、内心すごく困っていたのを思い出してきた。

「ここにいる私だけが私じゃない」

どこかに所属すると、その所属とはかけ離れた真逆のところに、つながりを作りたくなる。
昔からそんな風に、敢えて逆に自分を振っていくクセがあったように思う。

私立の中学を受験して入った時も、田舎特有の内輪意識みたいなものもあってか、学校が違う友だちと遊ばなくなる人も多くて。
でもだからこそ、私は小学校からの友だちと遊び続けた。
「なんであの子と遊んでるの?」と、私も友だちも言われ続けたけど、遊び続けた。何よりその子と遊ぶのは楽しかったし、私立中学に属している私だけが私じゃない。そう思いたかった思いもあったと今では少し思う。

NPOで働いてた時も、その界隈で出会う人たちのコミュニティーがメインの居場所になってる人が大半の中(友人も恋人もほとんどがそこで出会う人たち)、社会貢献とか社会課題とか、そんなものには1ミリの興味がないタイプの、たまたま合コンで出会っただけの彼氏(今の夫)と付き合い続けてて。
あまりにタイプが違いすぎて謎すぎて、私が騙されてるんじゃないかと職場の人たちが心配するもんだから、ちゃんと紹介をしないといけないはめになった記憶もある。結果的にみんなで仲良くなったけど(笑)

一方で、夫と共有してる世界観と、私個人として生きてる世界観もまたとてもとても離れている。家庭における私というのも存在するし、夫の妻である私も存在するけど、それだけが私じゃないと、私自身が強く思っているというのもあるんだと思う。
最近は、あえて家族が共有できない世界観を得にいってる感もある。

今も、10足のわらじを履いて暮らしているのは、どこかに所属しているという感覚を薄めたいという願望があって、いつでもつかず離れずの感覚を持ち続けられるようにした結果なのかもしれないと、すごく思う。

だからこそ、孤独に苛まれてしんどくなることも多いのだけど。
あー、アマノジャク。

「仲間ってなんなんだろうか」と、友人に改めて問いかけられたのもあって、最近そんな事をいろいろと考えてたりするのだけど、やっぱり個として立たないことには基本始まらないよなーと私は思っていて、やっぱり人間は基本孤独だし一人だし、でもだからこそつながりたいつながろうと思うのかなとか、つながることで安心感を得たいのかなとか、一周まわって月並みな答えにたどり着きつつある。

でも、その、人の「つながりたい」というのを、みんなが持ってる欲求だとして言葉にまとめてしまうと、ちょっと乱暴かなとも思ったりする。
つながりたいつながり方って人によって全然違うし、何より、そもそもつながるって面倒な事だし。つながらずに過ごせるあり方を模索し続けてきたという、人としての歴史もあるわけだし。

あと、「個として立つ」という表現もわかりにくい。
私の言葉で言うと、どれにも所属していない私としての言葉で話す、みたいなイメージだけど、だからと言って私も何にも所属していないわけでもないし。感覚としては、依存先を増やすことが自立みたいな、そんな感じに近いかもしれない。所属先を増やすことで、個として立つことになるみたいな。

私はどう人とつながりたいんだろうと考えると、結局のところは「仲良くなりたいけど所属はしたくない」という随分ワガママなところにいきついてて、そんな自分が大好きで大嫌いで、そんなところを常にグルグルしているような気がしている。
最近になって、基本的に好きが上回れるようになってきて、生きてるのが随分楽になったけど、まだまだここはグルグルしてるような気もしている。

明日はまた違うところをぐるぐるしてるかもしれないけど、とりあえず今のグルグルとして残しておく。

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