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『呪術廻戦』と救いの描き方 #駄論

呪術廻戦のアニメを観た。

きっとおもしろい作品なんだろうと、薄々感じてはいたが
面倒だったので後回しにしていた。
もう一押し、をするようなレビューや紹介が見当たらなかったのが原因だ

“いい作品は説明しづらい”

というのはある先輩からの言葉。
しかしわたしはそれを否定する。

“いい作品は多くの解釈を生み出す。むしろ説明されやすいものだ”

こう考えている。
こっちの方が、作品から伝わってくる熱量の理由にも納得できる。


わたしが『呪術廻戦』を観て想うところ

わたしの目に映った『呪術廻戦』の世界についてつらつら記す


【アニメーション】

まず「作画」が激しい

アクションマンガなので、「戦闘シーンをいかにカッコよく描けるか」
というのは重要な視点。

特に “動き” というものはアニメーションに許された表現。
それをフルに活用しているのが本作だった。

目まぐるしく動き回るキャラクターに呼応するようにグルングルンするアングル
こうした映像表現は戦闘の大立ち回りを、より激熱なものにしてくれる。

ex.)花御の戦闘シーンとか、見応えあったよねー

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ところでアニメーション:Animationの語源は  ↓

生命、魂:Anima(希) + 可動:ation(英)


見たことがある人は多いのではないだろうか。

フランス・ラスコー洞窟やショーヴェ洞窟、スペイン・アルタミラ洞窟などは紀元前に描かれた壁画であるが、これらは人類最古級の絵画であると同時に「アニメーション」の起源であるという説がある。

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壁画でよく描かれるのは、獣や生活の様子=記録的 なものであるが、
そこに絵画の工夫(テクニック)が施されている。

効果線や手足の残像 = 激しい動きの表現

こうした「部分を切り取った停止した絵」の枠を超えて、「平面にあっても立体的に動きのある絵」を描こうとするのが、アニメーションの根本的な思想だ。
「作画」の激しさは、まさにアニメーションならではの表現なわけだ。

また、あおり(=見上げる)と 俯瞰(=見下ろす)などの“見え方の変化”も多かった。

・近距離で殴り合いをしているシーンから、一気に引いて町全体を映す
・遠くにいた敵が一気に近づき 、吹っ飛ばされてまた遠くに離れる
・自分から見える風景と、相手から見える風景の切り替わり

こうしたアニメーションだからこそできる「非現実=ファンタジー」な表現は、作品をより楽しめるものにしてくれる。

『呪術廻戦』はこの「非現実」の表現に、ステータスの重きを置いているように思う。


たとえばこのシーン

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みんな大好き、ナナミンこと
「七海健人」の初戦闘シーンだ。

合理的に、クールに、迅速に。
彼のプロフェッションルが表現された回だ。
↑↑見て下さいよ、メガネを直す余裕まで見せてますよ。

注目すべきは、“血しぶき”と“雨雫”だ。
この二つが、ナナミンの振るった刀によって
画面に飛び散ったのだ。

通常、我々の目に“血しぶき”が映ることはない。
(というかそもそも目を開けてられない)
それは物を見るときには、一定の距離が必要だからだ。
黒目がレンズの役割を果たし、目の奥にある視神経に映像を映してくれることで物は“見える”。
ので、あまりに近すぎるとピントが合わずにボヤけてしまう。

同様に、雨が“雨雫”として見えることもない。

通常の視野で物が見える速度の限界は0.05秒~0.1秒程度。
雨の落下速度は秒速2.2m~秒速6.2mなので、顔の近くを通ったとしても一瞬で20cm以上動く、水の線だけにしか見えない。

こうした現実的な見え方に限定されずに様々なものが形をもって描かれている。

etc.)
・一般人視点では見られない漏瑚ら特級呪霊
・交流会での真依やメカ丸への遠距離ズーム
・ギャグパートで頻出するデフォルメ化

映像だからこそできる「非現実的な見え方」。
だからこそ面白い。だからこそ見ていて楽しい。

見えないはずなのに、アニメーションによって可能になった世界の見え方が視聴者をワクワクさせてくれる重要な点の一つだ。


【呪いの表現 = 領域展開】

では描かれたものの見え方に続けて、この作品で「何が描かれているか」を記す。
それは“呪い”だ。
わからなかった人はタイトル読めこのーー(自主規制)ーー。

呪いとは何か。
についてを『呪術廻戦』だけで述べるのは、些か不能。
作品から理解することが出来るのは

「何を呪いとして表現しているのか」

漠然とだが、我々は“呪い”について知っている。
人を“呪う”という行為についても、想像が出来る。
“呪われた”という表現を、用いるシーンをなんとなく予想できる。

ex.)限定キャラが引けないときとか、進研ゼミでやってない問題だらけのテストとか

しかし、それは曖昧なものでしかない。
明確な表現でなくあくまで雰囲気でしかない。
それは、呪いというものが「見えない」ものだからだ。

呪いそのものの姿・形は見えない
人・場所・物に結びつけられたときに初めてそれを知れる
呪いが何かは知らないが、呪いという行為の結果何が起きるのかは知れる。

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※ちなみにこれは和歌山・淡島神社の日本人形ちゃん。


『呪術廻戦』は「呪力」という言葉で、呪いによる戦いを説明している。
少年マンガに頻出する“力(パワー)”の可視化
あるあるですね。

それが人物だけでなく、環境にまで影響してしまったのが
“領域展開”だ。
キャラクターごとに異なってはいるが、「呪力」が形をもって表現されている。それも個性的に。

相手を呪うとはどういうことか。
どんな方法で行われるのか。
そこにある意思はどう現れるのか。

例えば作中最初のしっかりした領域展開は、漏瑚「蓋棺鉄囲山」。

呪術廻戦アニメ第7話-5

これは領域内の相手を「灼き殺す」目的で行われる。
漏瑚が得意とする炎熱によって表現された“呪い”だ。
危険察知能力に長けたバイトくんのファミレスにてその致死性が表現されている。
燃えたぎる火口のような風景には、グラグラと煮えたぎる意思の強さが表れているようだ。

漏瑚は傲った人類に対して怒りを抱えている。大地を畏怖することを忘れた人類に“思い知らせる”ために生きる呪霊だ。

「100年後の荒野で笑うのは儂である必要はない」

という台詞にもあるが、人類を直属に支配するのではなく“畏怖の象徴”として人類の記憶に刻み込まれることを望んでいる。

※実際、展開前に漏瑚はブチ切れている。富士山こわ~



同じように、敵として現れた真人は実に不気味な領域展開を披露する。
ナナミンをピンチに追いやった「自閉円頓裹」だ。

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真人のコンセプトは、「(自身を含む)魂と肉体の改造」にある。
自分の思うがままに、対象をぐちゃぐちゃに弄くり回す。
相手を自分の願望の捌け口にする。相手は自由を委ねられた道具へと成り下がる。

彼は変形させた後の一般人に興味は無い。ただ弄くり回したい、その一心で襲い続ける自己欲(エゴイズム)の塊だ。

「バラバラにすり潰されても、魂の形さえ保てば死にはしない。それと自分の魂の形は、どれだけいじってもノーリスクのようだね」

真人の手の上では、個人の特性や意思・感情は排他される。ただの土くれと同義だ。

「手」という表現は、彼の“呪いたい”という意思を直接的に表している。
『手の倫理』(伊藤亜紗/2020)の冒頭には、さわる/ふれることの相互的な関わりと、一方的な暴力性についてが比較されている。
手は最も身近にあって、最も相手への侵害権になりうる道具。
“呪い”のおぞましい一面が見られるシーンだっただろう。


主人公サイドでは伏黒の「嵌合暗翳庭」が特徴的だった。
カエルさんパーティーである。

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影を媒介にした式神使いの伏黒は、「生物」を用いて呪いを表現する。
直接的な漏瑚・真人とは異なり、自分以外の生命体を通じて呪う間接的な“呪う”という行為。
ここに目に見えないはずの呪いがもつ、あたかも生きているかのような恐ろしさ(=生物的な恐怖)が見てとれる。


日本のホラー映画や心霊スポットがなぜ恐ろしいのか。
それは物質的に予想できない、人間ではない何かによる自由な襲撃があるからだ。
動物園のような檻にでも入れておかないと、意思疎通のとれない生物というのは、メチャクチャおっかないものになる。
こうした形の恐怖は、“自然的恐怖”として怪談や心霊現象に多く用いられる。

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呪いは科学や魔法のように使用者が自由に扱える能力というだけでなく、
使用者が飼い慣らせなければならない不安定な能力
でもあるということだろう。
※生物的なものとしては、花御の技も同様

そしてもう一つ大事なのは、「媒介」されるということ。

五条先生の「無量空処」や特級呪霊の見せた「少年院の空間」は
他人の感覚(=精神)に影響を与えている
という点で一致する。
これはとても興味深いことだった。

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“呪い”=精神的なもの
ということにつながるからだ。


【精神的な捻れ】

五条先生が教示した、「呪力と呪術」の違いのシーン。
あの時、可哀想に2本の缶がぺちゃんこ & ぎゅぎゅっとされてしまった。


呪術は対象に、圧力や捻力をもたらす強力なもの。
呪力はそのエネルギー。

では、その「呪力」の根源はどこか?

ここに“精神的な負の感情”の重要性がある。

このシーン。

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吉野順平くんですね。悲しい話だったね( ;  ; )。
彼は一般の高校生にして呪術を扱えるようになった。
虎杖とは異なり、“呪力”を与えられていないのに。
※真人による呪術の指導だけは行っている

ではその根源はどこにあったのか。
ふり返れば“呪う”とは、

・特定の相手への殺意
・特定の相手への侵犯
・特定の相手への威圧

これらを伴う特異技術だ。

順平くんが“攻撃的”な行動を可能にさせれたのは、誰にでもある欲求=「精神的な捻れ」だ。

それは「自己愛(ナルシシズム)」

真人のそれと重ねていい。
人は誰しもが、「自分を満足させたい」という欲求によって行動する。
これが人間の根本精神だ。
※↓参考に一読

https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/shinri14-03.pdf

「誰かを助けたい、救いたい」(虎杖)
「自分の信念のために動く」(伏黒)
「田舎が大嫌い!」(釘崎)
すべては“不満”が動機なのだ。

そして、わたしが観た『呪術廻戦』は

「自己愛」によって「精神的な捻れ」と対峙する

というテーマをもった救いの物語だった。

【『呪術廻戦』での救い】

フロイトは人間のこころを、「欲求」と「理性」の間にとらえた。

「欲求」=~したい。~がほしい。=自分中心
「理性」=~してはいけない。~はダメなことだ。=周り中心

たとえば「誰かを助けたい」のも、「おいしいものが食べたい」のも、「嫌なヤツをぶん殴りたい」のも、すべて自己満足が目的。

でもそれを、現実は「理性」に訴えかけることで引き留める。
(ex.法律、社会的地位、周囲からの評価、常識、道徳・規範...)
つまり、自分の欲求を周りのために抑圧することでコントロールする。
私たちはそうやって、己を束縛して自らの「欲求」と向き合っている。

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でも、われわれが求めている「自己満足」というのは
「自分を大切にしたい」という欲求なのだ。=自己保存の欲求

自分が思っているこころの叫びや苦しみや悲鳴を、誰よりも感じられるのは自分だけだ。ほんとうは、周りなんかより「自分を大切にしたい」のが人間の欲求だ。

『呪術廻戦』は、それを認めてくれる、肯定してくれる、公言してくれる。
そういった“救い”があると思うわけだ。

いま、生きている社会を幸せだと感じる人は少ない。
自分が抱えている負の感情も、誰かに対する嫌悪も、思い出したくない過去も、すべて「理性」的に片付けられ向き合ってくれない。

自分が感じているこころの痛み、人生の苦しみはどこにも行き場を無くし、最後は自分を大切にしたい(欲求)にも目を向けられなくなっていく。
気づかないふりをしても、本当は思い続けているのにだ。
※自己肯定感や承認欲求なんかはその病理にある

だがこの作品では、その葛藤をむしろ直視し、強い気持ちで全面的に表出してくれる。

「だれかを呪いたい」「こんな世界を呪いたい」「呪いつくして壊れてしまえ」

そんな気持ちがあったっていいじゃないか、それが(われわれ)人間なんだ。
「してはいけない」「あってはならない」ことから解き放ち、こころの弱さを認めさせている。
それがこの作品の救いだ。

とりあえずこれで〆。

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