エッセイの取れる畑

 近頃はエッセイのことばかり考えているものだから、どうしてもエッセイの話ばかりになってしまうのを許してほしい。

 この数日、エッセイを思うように書けずに悩んでいたのだが、今日の昼間、公園のベンチでふと考えていたことがあった。
私はそのとき「エッセイの種はすべての人の内部に当然にすでにある」ということを心の中でたしかに認めた。それは疑いようもなかった。
私を畑に例えるならば、私がどうしても書けないなぁと思うのは、それはつまり畑の土が硬すぎるのだ。鍬や鋤を入れようとしても、土の奥深くまで入らない。表面の土がさらさらになるだけだ。
硬い土に当たって深く入らない鍬の手ざわりをじっくりと思い返すと、それはほんとうに私の「何かはあるはずなのに何も出せない」感覚と一致する気がした。
私という畑に撒く肥料があるとすれば、それはきっと読書や勉強であり、作物として実るのはもちろんエッセイだ。それに私には手帳という名のコンポスターまで揃っている、と考えるとだんだんと楽しくなってきた。
私はあとは器用に耕しさえすれば良いのだ。最初の方は作が良くないとは思うが、実りの悪いものはコンポスターでまた肥やしにすれば良いのだ。

 叔父が住職をやっている地方の寺に一月ほど居候させてもらったことがある。
あるとき、私は、空いていた土地を開墾してじゃがいも畑を作るのを手伝った。私が思い出したのはそのときの鍬の手ざわりだ。
あれは夢のような5月だった。透明な青空も入道雲も、杉の木立も山地の稜も、ずっとずっと高くそびえていた。

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