フォカッチャにとって窪みはアイデンティティだけれど、窪み自体はフォカッチャに何ら意味を成さないと気付いた日。
フォカッチャをフォカッチャたらしめる存在。
それは紛れもなくあの“窪み”と言えるでしょう。
窪みはフォカッチャにとってのアイデンティティと言っても過言ではないはずです。フォカッチャが自分の窪みについて話始めたら“お、これは第二の誕生だ”とルソーも思う事でしょう。
そんなフォカッチャの生命線とも言える窪みを作る行為は「スキャッチャーレ」と呼ばれます。なんだかサッカーチームみたいな名前ですね。
スキャッチャーレの目的は“膨らみを均一にすること”だそうです。いわゆるハンバーグのちょい窪ませる“アレ”です。
と、ここでれいちゃんは重大な事に気が付きました。気が付いてしまったのです。
“焼き終わっても、窪みは窪みとして
フォカッチャに存在し続けている”という事に。
窪ませても、綺麗に均一な膨らみになるハンバーグ化現象は起きず窪みは窪みとしてSTAYし、窪みでない部分は窪みでないままSTAYしている。
つまり、膨らみは決して均一にはならず、窪ませる行為は意味を成さないという事になるのです。しかし、窪みがあるからこそ、我々はフォカッチャをフォカッチャとして認識している。
ここで大いなる矛盾が生じました。窪みはフォカッチャをフォカッチャに仕立て上げるけれど、フォカッチャにとって窪みは必要がない。
そうなると、打開策は2つです。
①「窪み」のアイデンティティを尊重し飾りとしてつける
②「窪み」の機能性を判断した上で、そのアイデンティティを抹消する
れいちゃんは考えました。考える葦となったれいちゃん。結論、①で飾りとしてつけた窪みに②キタアカリ(じゃがいも)を埋め込むことでなんとか両案を採択するという苦渋の解を編み出したのでした。
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