結局、大切なものは目に見えない、心眼で見るホログラムである。

いつもありがとうございます。

上記の記事に紹介されている事例、すごくわかりやすいですね!!
占い始め、オカルトを学ぶ者の必読記事だと思います。

だいたい、すべて「方便」が使われているのに、本質が見えない人には、その方便ばかりが目につくので、一言一句の重箱の隅をほじくることに終始することになるわけですが、それは「偶然そうなる」のではなくて、「そのように作られているのだ」と、常々思っています。

オカルトの経典を読んでいてもそれは強く感じる。絵画に例えて言うと、「見る目のある人」が見れば、立体の「ホログラム映像で描かれた神聖なもの」が浮き上がるのが真の経典なのですが、感心するのは、「見る目のない人」が見ても、それなりに見えるような「絵」が、とりあえずは描いてあるところ。もしも経典の外観が、「ホログラム映像を見る目のない人」が見たときに支離滅裂なものとか、いかにもおかしなものであったなら、おそらく見る目のない人は「何か裏があるのだろう」と勘ぐったり、怪しんで破壊したかもわからない。でも、ホログラム映像に重ねて「見る目のない人が見た時はウサギの絵に見える」ように細工してあれば、なんだウサギの絵か、というふうに放っておかれて、事なきを得る。

あえて童話に見えるようにえがかれた書物もあったりしますが、それもこれと同様のカモフラージュだと思います。

見る目がある人にとっては、その絵を誰かに見せることによって、「見せた相手が見る目がある人か、そうでないか」を識別する、踏み絵的なツールにもなるわけで、色んな意味で便利なわけですよね。

素数一つとっても、パッと見はただの数字の羅列なのが、じつは神の暗号が隠されている。まさにそういう風に、宇宙は暗号に溢れかえっている。

ところが実際は、「見る目のない人」のほうが大多数であり主流なので、数ある経典がたんなる「ウサギの絵」として広まってしまい、「ウサギにはご利益があるのだ」と勘違いされ、さらに、ウサギの元絵を模倣するものが量産されたりして、「見る目のない人パラダイス」がどんどん大きくなっていき、まさにその姿こそが寓話というかw 滑稽な姿です。

分かってみれば、どんな知恵やツールも「主体的に使ってなんぼ」であって、主体となる自分が乗っ取られて消失した場合「自分自身がツールに使われるツールになり下がる」というコント。面白いですね。

次にこちらの記事。

ホントに同感、仰る通り。

メリットを得たければ、デメリットを背負う覚悟が必要なのですよね。

清濁併せ呑むという言葉がありますが、あれは「清と濁は、一緒に呑みましょう」という意味ではなくて、「何かを呑みたければ、清も濁も呑むことになると知りなさい。清と濁はともに溶け合うものだから、濁りを呑みたくないならば、何一つ呑むことはできまい」という意味だと私は捉えています。

たとえばね、足ツボ療法ありますね。あれは、足裏を刺激する、痛い治療法で、登山と似ていて一定痛みのピークが来るまではひたすらイタイが、その代わり、ピークに到達すると突然、それまでの不調がパーッと晴れる爽快感を感じます。あれ、じつは「痛みという形の刺激を脳内へ送る」というメカニズムの治療法です。つまり、痛くないと効果はない、「痛みイコール治療」であり、治療の苦しい部分を痛みと呼びメリットの部分を治療と呼んでいるだけで、同じことを言っている。そういう治療法です。ところがお客さんからは、「痛みに弱いので、痛くないようにお願いします」とか言われたりします。客商売なので、わかりました~とかいって、手加減してやるわけですが、実際のところは「痛くなければ効果はない」わけで、痛みの出ないようにやってる時点で、もはや「治療」ではない、ということです。それは気休めであり、リラクゼーションである。それはそれで気持ちいいだろうから、いいんだけども、また別のものになっちゃっているので、「足ツボ療法では、ない」ということはわかっておく必要がある。

それと同じで、私は、開運というのは賢くなることで視界が開けることだと思いますが、その中身は「自分が愚かであると思い知る苦しさと、賢くなる喜び」とのセットであって、苦しみの部分が修行と呼ばれ喜びの部分が開運と呼ばれているだけで、じつは同じことを指しています。なので、苦しみのない開運などを求めても、あり得ない。「H²O抜きで、水だけを飲みたい」、といっているようなものです。それは理論的に有り得ません。つまり現実を直視する「痛さ」から逃げている限り、「開運」はあり得ない。でもそこで商売だからということで、占い師で「わかりました~」とかいって耳触りのいいことだけ言う人がいますが、それはもはや「気休め」に過ぎないし、少なくとも「開運」は、しません。なんでも、リスクなりデメリットなりを背負う「覚悟」がないと、メリットも得られないのです。メリットとデメリットは、同じことの呼び方の違いなだけですから。虎穴に入らざれば虎子を得ずという言葉も、これと同義だと思います。
これも自分の実感だけで言ってますので、史実的な裏付けはないですがね!

そして、次に。気休めばかり受けた人が ↓ こうなる。

無知・無明の渦中の人は、あれもこれも恐怖、どっちを向いても亡霊に見え、何事も直視できない。そういうひとは、地味な本物は選ばず、派手な偽物である、商売人のところに行く。商売人は顧客をおだてる。おだてられて気分が良くなり、気が大きくなった無明の人は、恐れを知らない。畏怖の念を知らない。だから、こういう、聖なるものに近づく怖さがわからない。畏れ多いことを平気でやってしまう。良いことと悪いことの区別の全くない人間になってしまう。モラルの壊れた状態とはつまりこのことですね。
そういう人は、なんでも触りたがるし、所有したがる。モラルの壊れた人は、愚かであり、つまり傲慢ということですね。


本来、自然は勿論、人の体や心や魂も、神聖な存在ですから、しめ縄のされている場所を触ってはいけないということと、人の体にむやみに触ってはいけないというのは同じことを指すのですが…。

しめ縄のされたところにずかずかと入り込む人は、人の心にも踏み込むし、人の体にも簡単に触ります。痴漢や性暴力ってそういうことだと思いますね。一事が万事だと思います。おそろしいですねえ…。

「フェミ」とか「レイシズム」とかいって、細かくカテゴリわけなんかせんでよくて、たんに「すべてのものを尊重しましょう」というだけで事足りる話なのですが、その言葉一つとっても、ホログラム映像を見る目のない人が見ると、ただの人権標語にしかならないわけですねえ…。

なんだかなあ。

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