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競合か協調か


「手順を踏む」って大事と思ってます。
けど、それで
「やる気をなくす」

「意味ね~は」
ですよね。

ほんまそれ!!ほんまそれですわ~。
でも、この往復書簡の、前回載晋人さんの記事↓に貼ってた画像がそれですよね。

「考えさせない」ために学校ではあれこれ手を尽くしている。この、「完璧な手順を踏め」とばかりに手順重視することも、人のやる気の炎を消すために手を尽くしているうちの一つな気がします。

やる気になる、興味を持つってすごく大切で、「あいつに勝つ」っていう闘志とは別のものなんですけど、この競争社会においては、「やる気=闘志」にすり替えられてる気がします。これについては、後で書きます。

で、上記の載晋人さんの記事で、私の質問への回答下さりありがとうございました!中国兵法やE・フロム、加藤諦三さんにハマっておられたとのこと。中国兵法とは、凄いですね。やっぱり精神面での実戦対処法ですね。漢文そのままで読めずとも、今は翻訳とかしっかりありますから、漢文原文で読むことにこだわらず、色々利用して知識を得て利用することが大事ですよね。

始めに貼った、前回の記事に解説頂いてましたが、この馬のお話面白いですね!ハズカシながら、一回読んで分からず、二回目で理解して、理解した瞬間、「お見事対応!!」っていって笑ってしまいました。
一回目読んだときは、人の名前が、固有名詞なのか立場を指すのかよくわからず、位置関係がみえてこなくて、「だれがコレを喋ったの?」てのがわかんないってのが自分の中で障害になってたみたいです。でもコツを掴めば読むの上手になりそうな気がします。

これすごいですねえ、王に正面切って、しかも部下の前で「あんたそんなことしたらメンツ潰すよ」なんて説教なんかしたら、うるせえっつって自分も斬られますよね。ただでさえ怒りまくってる王に説教は、火に油。炎上は必至。そこを、粗相をやらかした側をさとすというポーズで、王がやろうとしていることは愚かなことだよ、と主張した。なんとお見事な、いうたら「神仲裁」ってやつですね。とんちが効いててすごく面白かったです。
漢文面白いですね!いろいろ読みたいと思うので、私は載晋人さんのブログにのっているもの、載晋人さんのおススメのものから触れることにしますw

加藤さんは、たしかテレホン人生相談にでていらっしゃるかな。真面目な兄が良く読んでました。私も昔はちょこちょこ見ましたけど、最近は加藤さんの本は、なんか「べからず集」というか説教臭い印象なのであんま好かんです(好きな人には申し訳ないけどただの好みの問題なので(;´∀`)ご容赦いただくとして。)
E・フロムは哲学者、心理学者ですよね。フロムは読んだことないんです。今野田先生のアドラー心理学を学んでいますが、ちょっとアドラーの方がフロムより早いのかな。アドラーは1870年代に生まれています。
今ちょうどアドラー関連の音源を文字起こししていますので、頭の中がアドラー一色なんですが、アドラーはどうやら第一次世界大戦を経験しており、こんな争いを人類が繰り返していたら、人類は滅んでしまうと危機感を感じ、なんとか人々皆が協調して幸せに生きる手立てはないものかと模索したのが始まりだそうです。

ですから、アドラーを学びますと、そこにはどうやって人と人とが共同体として協力しあえるかとか、子たちにどうすればその共同体の感覚を伝えられるか、ということばかり説かれてあって、もう「なんとしても私は人々と協力し合って生きていくのだ」という決意を感じます。もう決意ありきですね。
世の中を見渡してみると競合ばかりです。表向きは、助け合いましょうとか協力しましょうとか言ってますが、実際にはそういう取り組みが全くなされておらず、口だけです。実際に起こっている事象を見れば、通信簿の成績や身体能力の高さで競争しあい、競争で勝ったものが負けたものよりも力があると認められる。そして力を持っているものが、より力を持っていないものに対して、侵略したり暴力をふるったりしても、お咎めなし。しかし逆の場合は制裁を受ける、というようなものです。これでは「強ければ何をしてもよいのだ」ということや「表向きと実際とは違うのだ、表向きだけきれいごとを言っていれば丸く収まるのだ」と、子たちに態度で教えているようなものです。

競合する人たちの理屈では、根底に、弱肉強食の関係性が正しく、それ以外の生き方はできないという信念がうかがえます。つまり世界には食料も富も限られた分しかなく、全員に行き渡るほどの量はないので、人と人とは争い合って、限られた富や食料を奪い合うしかないのだ、そして奪い合いで勝ち取った者が、手に入れたものは、自分の好きに扱っていいのだ、という信念みたいなものが、根底に存在していて、それに、パッと見小綺麗でごもっともな屁理屈をつけて、成績や身体能力などで競わせて公然と「階層的社会」「競合的社会」を作り上げているようにしか見えません。

屁理屈は何とでも言える。「奪い合わないければ無理に決まってる」という考えで物事をみればそうしないといけないような屁理屈はいくらでも見つかる。たとえば、闘志は意欲そのものであり、競争がなくなれば意欲も向上心もなくなって、自堕落な人間ばかりになってしまう、だとかいうことを言って、競合することを正当化します。でも私に言わせれば競い合わせ敗者を決めることのほうが、多くの敗者の自尊心を傷つけることで、自堕落な人間や凶暴な人間をふやすような気がします。
ですからアドラーのように「何が何でも協力しあって生きるのだ。共同体で協力し合って生きるのだ」と決めてしまえば、協力し合わず争いあう世界の愚かさが初めて見えてくる訳です。

だからつまり、アドラーでいわれる目的論で、目的を決めるにあたっては理屈や理由はわきに置いておけばいい。協調か競合か、どっちに向かいたいのか。それを心にきいて決めるだけ。そして、どっちに行くかが決まったら、そこで知性の出番です。どういう道順や方法で、そっちに行けばいいのかを考えればいいわけですから。

もう、ごちゃごちゃ言わず、誰がなんと言おうと他者と協調して、綺麗なハーモニーを奏でていくのだと、決める時が来ていると思いますね。

私も、書き散らしましたが…。お納めくださいw

※この記事は、マガジン「往復書簡【載晋人⇔朝乃玲】
https://note.com/reiasano/m/m479c74763a9e
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