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見える道しるべは必要だが、道しるべ「しか」見てないと迷うという罠。
この「非ず(でない)」「非ざれば(でなければ)」「非ざるべからず(でなければいけない)」この辺の言い回し、ほんと苦手ですww
非ざるべからず位になると、いつも「え~っと…」と整理しないと読み続けられないw
でもこういう漢文とか哲学的な読み物というのは本当に忍耐力がないと読み進められないですね。
最近は、文字を読む忍耐力がすでにない人が多いようで、そういう人が動画サイトばかり閲覧するようです。私みたいな?多動脳がどんどん進んでいる人が増えているのかもですね。
前置きは以上として。
「本当にこと・大切なもの」は実はすでに見えている。かもしれない。
でも「我欲だらけ」で傲慢だから、な~にもわからなくなっている。
そうそう、大切なものはすでに、誰の目にも触れるところにある。もう、目の前にあるんですよね。でも目が曇っている。「我欲」という色眼鏡をかけているから見えないというわけですね。
「道の光」にこのような一節があります。
(1)野心を殺せ。しかし、野心のある者の如く働け。
(2)生命への欲望を殺せ。しかし、生命を望む者がなす如く生命を大切にせよ。
(3)慰安への欲望を殺せ。しかし、幸福を求むる物の如く幸福なれ。
このように、大切なものは二重構造になっています。
外側にあるのは、「野心のある者の如く働く姿」であるけれど、その内側の信念においては、野心で働いているようではいけない。
外側にあるのは、「生きようとする意欲に溢れて生きる姿」であるけれど、その内側の信念においては、生命に固執しているようではいけない。
外側にあるのは、「自分を幸福に満たして生きる姿」であるけれど、その内側の信念においては、慰安に溺れているようではいけない。
ところがこの信念の部分においては精神の内部で起こることであるので、言葉を使って伝えようにも、見本を示そうにも、外側の姿でしか言葉にもできないし、見本でも示せない。
だからほとんどの人は、表層の部分を真似るのが精一杯になってしまうわけですね。それは、怠けているとか手を抜いているのではなくて、本当に表層の部分しか見えないのだから仕方ない。たとえば全盲の人に絵を見せて感想を言えというようなもので、個人の能力をこえて何かをなすことはできないわけです。
でもここでも階層というか段階はあるので、その当事者が置かれている場所の階層で、適切な行動を行っていくしかありませんね。絶対的な正解もないし、絶対的な不正解もないわけですから。
その場において、より適切と思われる行動を選択するしかありませんね。消極的かもしれないけど、それが最も確実によくなる道筋のような気がします。
なんだか禅問答みたいな内容になってしまいましたがw
ところで、告知があります。
上記の「道の光」を、Skypeの読書会という形で勉強したいと思っています。2021年6月4日の午後2時ごろから実施する予定で、参加費は無料、PCでもスマホでも参加可能です。参加資格は「この本を持っていること」で、持っていない方は私から定価で販売できます(税込1320円、送料はサービス)。在庫あり、すぐ発送可能。本の購入希望や読書会参加の希望は私宛に「問合せ」を送って下さい。(問合せの送り方は以下を参照)
この本も読むのに忍耐力が必要な本ですが、何人かで力を合わせれば読み込んでいけるかと思います…興味ある方は是非!
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