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「現代人は、美しい、かっこいい、かわいいと位置付けられるだけで、マスメディアで発言できたり、物を売ることができるというシステムの中に生きている。」

私の今まで

 私は、特別「可愛い」と崇め奉られた経験はない。可愛い女の子を男の子がからかいたくなること、可愛い子が何かと有利であること、可愛いと可愛くないで人間は二元化されること、全て経験済みである。こんな状況をこの目で見てきて、かつ自分はそのチヤホヤされる対象では無かったことから、自分が「可愛い↔ブスのピラミッド」において上位層ではないことを学んだ。まぁ自我をもちはじめた位から、自分の顔が世の中的に「可愛い」とされる立ち位置にあるものではないと鏡を見て分かっていた。服の試着をしても、「こんなブスがこんな可愛い服着ても無駄なのでは」と思うくらいだった。

「顔」の教育

 私たちは生まれてから如何に「顔の良い悪い」という視点を覚えるのか。それは芸能人が大きく関係していると考える。幼稚園児くらいの子供が、テレビに映っている女優を見る。その女優は、小さい卵形のお顔の中に、大きくて二重の目、スっと通った小さくかつ高い鼻、プルっとした程よい厚みの唇等が完璧な位置に留まっている。このお顔をひとたび見てしまえば、目が離せなくなる。「この女優さん可愛いねぇ」そうお母さんに言われて、これが「可愛い」ということなのか、と身をもって学ぶ。「顔」の教育は、テレビにうつる女優さんを教科書にしておこなわれるのである。

 テレビにうつった女優さんが全日本人の「可愛い」の教科書になるのだが、テレビはメディアの絶対的エースだ。テレビのない家は珍しいと言われる程に、一家に一台はテレビがある。また芸能界は厳しい世界であり、要らない人材は直ぐに取って代わられる。実力のある人、アイデンティティがある人は別として、可愛い女優枠の競走は激しい。中途半端に可愛いだけの子はテレビ露出の機会さえ与えられないので成長できず、圧倒的美人はその顔からチャンスを沢山与えられ、実力を伸ばし、さらにテレビに出られる、という自然淘汰が起こる。その自然淘汰によって、可愛い女優と言ったらこの人!という模範解答が確立されていく。となると、「可愛い」という感情には大衆性があると言えるし、「可愛い」という感情が想起される対象は明確であり、限定されている、という性質を見出しても差し支えないだろう。これらの性質を以て大多数の人間がお互いの顔を可愛いか可愛くないかで分類分けする、といった動きが発生する。しかしここで忘れてはいけないのは、「可愛い」は意見と事実の二面性がある、という事だ。

 「あの人の顔が可愛い」というのは本来事実ではなく、意見である。「可愛い」という感情が想起される対象がみな同じだから事実として扱われやすいが、意見は意見である。すると、この分類分けはただのカテゴライズではなく、「評価」なのである。お顔に対する評価は、「可愛い」と「ブサイク」を両端にとってひかれた数直線に個人を並べていく作業である。その作業が更に可愛い顔の特徴を明確化し、補強するのである。

 また「可愛い」の二面性における事実の方についても説明したい。「可愛い」は意見であるが、事実のベールを被っている。意見は偏り集まると事実になる。99パーの人間がAさんは可愛いと思う、という意見をすると、Aさんは可愛いという事実が完成する。だからある人が「あの人可愛い」と言うとき、意見を言ってるのではなく事実を言ってるような気になっている。意見を主張するとなったらその発言者は批判を受ける可能性があるが、事実は言ったとて何も批判は受けない。だから「Aちゃんって可愛い」という意見(評価)を事実供述のように簡単に口にするし、口にすることに悪気は無いのである。

 テレビで活躍する女優が「可愛い」の教科書となって個人個人の中に埋め込まれ、それに準じて大勢が悪気なくお互いの顔を良いと悪いに分類分けした結果、確固たる外見ピラミッドが形成され、人の顔は被評価物になってしまったのである。アートは本来評価の対象では無いのにデザインと混同されがちなために評価されてしまうように、顔もまた本来評価の対象では無いのに評価されるようになってしまったのである。

 私はこれに違和感を感じた。あの人の顔が可愛いとかあの人はブスだとかいう言葉が日常に頻繁に行き交うが、その言葉自体がそもそも的外れなのではないか。顔とは本当に評価されなければいけないものなのだろうか。

 「現代人は、美しい、かっこいい、かわいいと位置付けられるだけで、マスメディアで発言できたり、物を売ることができるというシステムの中に生きている。」

 そんな問題提起にヒントを与えてくれたのが、この言葉である。この言葉の通り、私たちが普段当たり前だと思っている、顔への評価、そしてそれに起因した顔と顔以外の事柄の因果づけは、人間が勝手に作り出した後天的で文化的なシステムなのである。決してあたりまえではない。なのにみな当たり前だと思っているのである。

後天的で文化的なシステムとは

 では、皆が当たり前だと思っているシステムとは具体的に何か。その例を、以下に示していく。

 私が高校の頃の友達との会話中、その言葉は出てきた。「顔もそんなにたいしたことないし別れた。」これは、付き合っていた彼氏の言動や振る舞いに嫌気がさし、かつこれで顔が良いなら100歩譲って我慢していたが、顔も大して良いわけではないから別れた、という文脈である。顔が悪い、ということが別れの一因となった、とも言える。しかし、顔が悪いということと別れに本来関連性はない。関連性はないのに、この世の中はここの因果関係を変だとは思わない。顔のよしあしが何かの判断材料になるシステムがこの世には平然と備わっているのである。

 また以下のような例もある。[好きな人や彼氏がいると言う→写真を見せろと周りに言われる→写真を見せた→顔がいいと称賛され、顔が悪いと非難される]。好きな人や彼氏の話をし始めると周りが真っ先に顔を見たがる、ということに違和感を感じずにはいられないが、特に言及したいのは「その好きな人や彼氏の顔がいいと称賛され、顔が悪いと非難される」という部分。顔がよい人を好きな人、彼氏として提示したら、自分に能力というか、センスがある、と褒められ、顔が悪い人を好きな人として提示したら「全然かっこよくないじゃん。この人のどこがいいの?笑」「センスないね笑」と非難され、最悪「好きでいるのやめな」とまで言われてしまう。恋愛に関することとなると、顔という観点にますます比重が置かれ「顔が良いことが正義でブサイクなことは悪」という、一種の宗教さえ感じられるのである。

 もう1つ私が不可解に感じる事例を述べる。顔のレベルというものがあって、それが釣り合っているいないという話題が存在する。「当然、顔がいい子には顔のいい彼氏(彼女)がいる」、「なんで○○ってあんなブスと付き合ってんの」という文句がそれにあたる。これもなかなか意味不明だ。前述のとおり、顔はそもそも評価の対象外だ。100歩譲って顔は評価の対象内であるという前提をうけいれたとしても、顔のレベルが釣り合っている場合も釣り合っていない場合も、どちらも違和感を拭えない。自分の顔と恋人の顔に相関関係を見出せるものなのだろうか。

「顔」を考える上で最も重要なこと

 再渇すると、今まで示した事柄は「私たちが普段当たり前だと思っている、顔と顔以外の事柄の因果づけは、人間が勝手に作り出した後天的で文化的なシステムなのである」ということの例である。これらの例は「顔」がどのような性質であるかを説明して初めて納得してもらえるだろう。顔において最も注目しなければならない性質、それは「顔は、あまりにもその人の意志や人生を反映させていない」という点である。外見と内面、顔と性格は対照的なものとしてよく取り上げられる。性格というものは、その人が育った環境や周りにいた家族で決まる。その人が何に興味をもち、何を好きになって、何に傷つけられ、何を思い、どれだけ愛されてきたか。それらが有機的につながったもの、それが性格である。顔はその真逆だ。もちろん顔だって両親という家族によって決まる。しかし、それは両親の「遺伝子」で、という意味であり、親の愛や親の言動、親の教育方針は、性格には関係してくるが顔には一切関係してこない。どれだけ書物を読んでも、どれだけ勉強をしても、どれだけ成功しても、どれだけ失敗しても、目が一重から二重になることも、団子鼻が鷲鼻になることもない。顔はその人の生き様を全く映しださないのである。映しださないどころか、顔が悪いというあまりにその人の意見に耳が傾けられなかったり、交友関係の機会が減ったりなど、顔がその人の人生をネガティブな方向に変えてしまうことさえある。人生のターニングポイントで性格が激変するように、顔のパーツも変わって欲しいなどと言いたいのではない。人間は顔というもので輪郭をなしているし、会うたびに顔が変わってしまえばその人が誰だか分からなくなってしまう。顔の造形が変わらないからこそ、久しぶりに会ってもその人が誰であるかが分かるのである。顔は誰であるかをあらわすのには最適であるが、どのような人かをあらわすのには不適当だ。だから、顔という要素が他要素に関連づいているシステムが今日も問題なく歯車を回しているこの世界に、生きづらさや違和感を感じずにはいられないのである。

結論

 こんなに顔について散々違和感があるなど気持ち悪いなど申し上げてきたが、私は弱いから、人を好きになる要素に顔という観点を撲滅しようとはしないし、人の第一印象を顔の良さで判断してないとは言いきれないし、顔の悪い人に興味がなくて顔のいい人とは仲良くなりたいという至極傲慢な感情をもっている。こんなに問題提起をしといて、その答えを根底では分かっているのである。この気持ち悪いシステムをどこかでは納得していて、きっとこのシステムに本気で抵抗はしないのであろう。こんなに意見を散々述べたのは、私の中の違和感を言葉で整理したかったからであり、何か世の中に変化を求めているわけではない。求めていることがあるとするならば、過去の自分を基準として「可愛い」と言うのだけは許してほしい、ということであろうか。


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