洗脳による集中力の危険性

スポーツに限らず勉学においても音楽などによる一体感の共有によって人は案外簡単に努力するように洗脳できるのではないか。そしていずれ本人には無理をしているような違和感も感じなくなり努力を努力と感じなくなる。要は社畜。

目標達成のために、あるいは現実から目を背けるために、洗脳はプラスの働きをする場合がある。これの危険性を検討する。


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この世界のあり方は結局個々人の価値観、世界観で構成されているので自らを洗脳さえできてしまえば自分の行動の動機付けにもなり正当化ができるので「思い通りの人生を歩む=自己肯定感=幸福感を得」て悩まずに作業が捗る。

ずっとユーフォリア(多幸感)に浸かりながら洗脳した状態が続けばさらに良いが、人生はそう単調ではないのでいつか環境やすべきことが変わってしまう同じ状態ではいられない。加えて解けるまでにかなり時間がかかるもので、目標が達成できなかった時にそこで苛まれたりする。

仮にその状態がずっと続いたとしても、自身の相対視ができないのでその絶対的な指標を失うことが人生の意味自体を無くすので極めて危うい。


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2パターンある。洗脳中も苦痛を感じるパターンと、そうではなく幸せになるパターン。

集中すること自体は夢中になるため苦痛は軽減され、知らず知らずのうちに成長できることが魅力だ。

だがやはり嫌なことを長期間に及んで取り組むと作業していない時間帯は苦痛を感じる。その苦痛に耐え切ったのに目標達成ができなかった時には、取り組んでいた期間が全て無駄のように思われる。

そして洗脳が深ければ深いほど、目標が達成できなかった事実を受け入れられない。「なんで自分生きてるんだろ?世界線変わったのかな?」と思うぐらい日常は続いていたことに驚き、新しい人生が始まったのかなと適当に日々を過ごそうとするが、実際は長期間苦しみ続けることになる。

幸せになるパターンでも、何かに熱中しすぎることは周囲との亀裂を招いたり、洗脳が切れた場合に現実と理想との差を受け入れられなく、年数を経ても不安が残ったりする。

洗脳にはいい面もあるが使いどころが難しい。

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そうは言っても、洗脳は案外身近に存在する。

「絶対甲子園に行くぞー!俺たちは最強だー!」

と集団で誓うのも一種の洗脳だ。

短期間に何かに集中したい時には極めて有効だが、長期間、現実を逃避するため、あるいは自分が嫌いなものを無理に好きになるためにはなるべく洗脳は手段として選ばないのが吉だろう。


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