【感想文】TBSドラマ『カルテット』脚本坂本裕二

ドラマの感想のかなりの部分を『塩狩峠』の感想文に書いているが、そこからもれた部分をこちらに書き残しておくことにする。

生まれて初めて第一話から見始めて、ハマって、次はまだかと楽しみにして見続けたドラマ。

最終話、最後の食事シーンでレモンをかけ始めた時に、「あ、これパセリだな」「こういう話が来るな」と思って、その通りの話が続いたことで、受け取り方は間違ってなかったのかなと思えた。

前回のノート『塩狩峠』と同じくセリフを引用しつつ振り返りたい。

「みんなのおもしろいところを、みんながおもしろがって、欠点でつながってるの。」(7話 巻真紀)

欠点を欠点ではなく特徴だと考えたい人もいるだろうが、個人的には欠点は欠点でいいではないかと思っている。
欠点があってこその人間だし、欠点があるからこそ、その「欠けを補い合う」という行為が生まれる。

人はそのように創られており、それこそが人間の生き方なのだと思う。

欠点を馬鹿にする態度は一番嫌な気持ちになる。
学生の失敗を馬鹿にして笑うような教師とは一緒に仕事をしたくないし、そういうことが職場の環境として許されたことに対する失望は大きかったし、その時点でそこにい続けることはできなかった。
馬鹿にした態度をとる人自身はそれでもかまわないのだが、本来それ諫めるはずの立場の人たちが、それに同調して注意をしないことが最も悲しかった。

自分の欠点を棚に上げて見下す姿勢ではなくて、自分の欠点を認めた上で相手の欠点を理解し補うという姿勢でいられるように、難しいことだが努めたい。

「この人には私がいないとダメっていうのは、たいていこの人がいないと私ダメ、なんですよね。」(2話 巻真紀)

だから、これでいいと思う。自分がそういう人間だからというわけでもないが、人間は一人で生きるには弱い。
一方的なものであれば依存になってしまうが、助け合う状態であればそれでいい。
お互いに助け合っていく人がいれば、いや、いてこそ、生きる喜びも意味も得られる。

「注文に応えるのは一流の仕事、 ベストを尽くすのは二流の仕事、 我々のような三流は明るく楽しく仕事をすればいいの。」
「志のある三流は四流だからね。 」 (5話 朝木)

一流の人間はごく一部しかいない。授業が多少下手でも、明るく楽しくやって学生を楽しい気持ちにすることは教師にとって重要で、そこを忘れたら四流になってしまう。
辛い時でも、苦しい時でも、プロとして明るく楽しく振舞えれば、仕事としていてもよいだろう。

声のトーンが暗く、授業を受けていて退屈な気にさせるような、やる気にさせられないような状態では完全なる四流であり、それでお金を取って仕事をしていては軋轢を生じる。

教えている内容が同じ、説明が同じでも、暗い話し方では伝わらず、四流の烙印を押される。
かつての四流だった自分を振り返ると、その時は実現する手段を間違えたままに高い理想を求めて、楽しさを忘れていたのであり、それはひどいものであったと思う。
相手を楽しませることを常に忘れてはいけないし、まずそれを第一に考えてもいいだろう。

「みなさんの音楽は、煙突から出た煙のようなものです。価値もない。意味もない。必要ない。記憶にも残らない。私は不思議に思いました。 この人たち、煙のくせに、何のためにやってるんだろう。 早く辞めてしまえばいいのに。」(10話 手紙)

煙でもいい。
想いが届くことが大事。一流である必要などなく、人はその気持ちを表して、その気持ちが相手に届けば嬉しくて、その時に感じた幸せは今までの成功も失敗も全てがあったからこそ得られているのであって、そうして人間は今を肯定できる。

人は人との関わりあいの中で生きていて、その関わりによって生きがいが得られて、今が好きになって、過去から前に進める。
人生をやり直すスイッチを押す必要はなくなるのだ。

「音楽は戻らないよ?前に進むだけだよ。一緒。心が動いたら前に進む。好きになった時、人って過去から前に進む。」(9話  世吹すずめ)

今周りにいる人たちを好きになった時に、過去の後悔に縛られずに前に進めるようになる。
過去の苦しみを与えられたことにも、恵みであると感謝ができる。

「疑惑の美人バイオリニスト」という目で演奏を聞いて、途中で席を立って行った人々は、人に石を投げつけることで自分をよい人としておきたい層だろうか。

純粋に楽しみ、心を通わせた人々は、それが例え三流の演奏だったとしても、そこで楽しいひと時を過ごすことができたはずだ。受け取る側になる時も、純粋に楽しむという気持ちを持っていたい。

「届く人には届くんじゃないですか。その中で誰かに届けばいいんじゃないですか。」(10話 世吹すずめ)

(世吹)「外で弾いてて、あ、今日楽しいかなって思った時に、立ち止まってくれる人がいると、やったって思います」
(家森)「あ、嬉しいよね」
(別府)「その人に何か」
(巻)「届いた!」
(世吹)「そう!」
(家森)「感じがあるとね、こう、気持ちがね」
(巻)「自分の気持ちが音になって」
(別府)「飛ばす」
(巻)「あ、そう、飛んでいけーって」
(家森)「わかります。音に飛べ、飛べ」
(世吹)「届けーって」
(巻)「あの感じがね」
(別府)「ですよね」

これは人生を前向きな気持ちで送ろうと、心を通わせあって生きている人たちの生の喜びにも感じられる。
自分に与えられた賜物がどんなものでも、すばらしい賜物が与えられていなくとも、それを受け入れてあきらめるのではなく、それでも好きだと言って楽しめる人生がいい。

一流しか認められない世の中は窮屈すぎる。
三流は三流だからと言って、その人を下に見るのは間違っている。
下手でもいい。精一杯の気持ちを表して、伝えていくことが一番だ。

パセリもそこにあって、役に立っていて、意味がある。
自分がたとえから揚げの横に置かれてるパセリだったとしても、それでいい。
きっとその存在に気がついて、価値を感じてくれている人がいるはずだ。
それだけで、その存在は素晴らしい。

「ここにパセリがいることを忘れちゃわないで」(10話 家森)
センキュー、パセリ。
音楽も絵も、自分の才能のなさにがっかりすることも多いが、そんな時に堂々と明るく楽しく、やりたいことをやればいいじゃないかと思うために、このドラマはこれからも見直すだろう。
欠点のある人間を、自分を、それでよいと認められ、さらに信仰的にも強められた。

2017年4月4日

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