【読書感想文】新潮文庫 『青い鳥』 メーテルリンク(堀口大學訳)

中高の頃は、小説など全く興味もなかったし、読んでもなんとも思わなかった。
ましてや童話を手に取るなど考えられないことだったが、変わるものだ。

結果的に2017年に読んだものだけでなく、今まで読んだすべての本の中でも一番にあげられるかもしれない、大きな存在の本になった。
これを読んだのは、三浦綾子の『光あるうちに』を読んだからであり、そのように出会わせてくださったことに、何としてもこたえていかなければならない。

いろいろなものを感じ取り、そこから想像を膨らませ自分の身の回りの具体的な何かと結び付ける。
今になってわかるが、かつての自分が本を読んでも何も感じられなかったのは、結び付けるための何かを持っていなかったということにほかならない。

家族と過ごす時間をもってこず、家族の友人、親戚と遊ぶということもなく、一人で過ごし一人で遊ぶ日々で、人間関係を広げる能力もなかった。
塾や習い事は何もやらず、ほぼ毎日家で一人で過ごし、誰かとともに何かをするという時間が決定的に欠如していた。経験が足りなかった。

「幸福の花園(Les jardins des bonheurs)」から「未来の王国(Le royaume de l’avenir)」そして「目ざめ(Le réveil)」と思わず何度かうるっとするわけだが、かつての自分からしたら信じられないことだ。
年を取って涙もろくなるのは経験が増えて、共感できることが増えて、自分を投影したり「もしこうだったら」と想像できることが多くなるからだと思っているが、高校までの自分にはそれが何もなかった。

森においてチルチルとミチルは父親のしたことによって、木と動物に襲われる。
Je ne sais pas, monsieur. Il ne l'a pas fait exprès.
「ぼく、そんなことなにも知らないんです。とうさんだってわざとしたんじゃないと思います。」
多くの人が理不尽さを感じたり、そんなこと言われても困るよなあと感じるのではないかと思う。
この部分をどう読むか。そしてその感じたことと自分が現実にしていることと整合性はあるのか。どう話をするのか。どう理解するのか。
以前とは全然違うことに気が付く。

幸せは周りにあって、見えない。遠くを探さなくてもすぐそばにある。
毎朝子供を保育園に送っているが、今は保育園に行く途中に毎日幸せだと思う。
二年前も毎朝子どもを保育園に連れていっていたが、8時40分から始まる授業に間に合うかどうかが不安で、焦っていることしかなかったので、そう思う余裕はなかった。
たまに時間があっても疲れていてそういうことは考えられず、二、三度あったかなという程度だが、今は毎日もれなく思う。
さらに保育園で友達と挨拶をしたりハイタッチをしたり、「○○くんのパパだ」などと抱きつかれたりしたら、ものすごい喜びなのだが、そういうことがなくても感じられるのが今だ。

それ以外でも、子どもと一緒に歩いている時、抱っこしている時、笑いながら走っているのを見る時、いい時間だなと思う。
もちろんたまにイライラもする。必要以上にイライラし、怒り、反省することは当然多いが、以前とは全く違う。

そして、それらが自分の力ではなく、すべて他の人のおかげで成り立っていることに気が付けば、そのことへの感謝と喜びが生まれてくる。
人それぞれに幸せがあり、どうしようもない生活だと思えるような状態でも、周りにはちゃんとある。
その一つ一つが成立するためのこれまでの経緯すべてをあれこれ考えれば、感謝と喜びしか生まれない。
驚くばかりの恵みにあふれている。それは困難や苦しみでさえも。

今まわりで支えてくれる人たちとなぜ出会えたのかを考えたら、その出会いのきっかけが好ましくないことであっても、やはり全て感謝につながっていく。

将来のことを考えれば、経済的なことなど不安は出るだろうが、そこにある幸福は本当のしあわせではないのだとなればどうでもよくなる。

「幸福の花園」に行く前に光が言った。
Il est beaucoup de Bonheurs qui ont peur et ne sont pas heureux.
「『幸福』たちの中には、なにかを恐れたり、あまりしあわせでないものもいるのですからね」

そういったものは本当の幸福ではなく、気晴らしたちであり、それに囚われると維持しなければと焦り恐れてしまう。
そこで『光あるうちに』の中の一部が思い返される。

人生の中の虚無を埋めようとして、気晴らしになることをしても、それは後でもっと大きな虚無を呼ぶだけなのだ。

一人で意味のないただ楽しいだけのことをするのは、恐れがあるか欲があるかといったことではないだろうか。
もちろんしたければすればいいのだが、「それをした後にどうするか」ということがないままだと虚無を呼ぶ。

今はSNSがあるから、何かした後に訪れる虚無はそこで発信することで埋められるようになったかもしれない。
では何のために発信するのか、誰に伝えたいのか。この点を考え、整理できるかによって精神的な安定の度合いも変わってくるように思う。
そこで何も考えずに人からのリアクションのない発信を続けていれば、発信しなかった状態よりももっと大きな虚無に囚われることになる。

発信した後の虚無をどう埋めるのか。
次々に虚無が現れてくるのなら、そもそも最初の段階で埋めようとしなくてもいいのかもしれない。
実は虚無なのではなくて、「そうであるように思われるだけ」なのかもしれないのだから。
幸せは常に周囲にあふれている。

Le ciel est partout où nous nous embrassons.
「母の愛」は「わたしたちが抱き合っているところはどこだって天国」だと言う。

ふと見回せば周りには幸せがごろごろ転がっている。
ある幸せは、その周りの様々なことに支えられており、その一つ一つのこと全てが喜びの対象だ。
虚無を見るより、そちらを考え探す時間のほうがよい時間を過ごせるだろう。

書きながら考えたことがこうしてまとまってきたところで最後を見返して、やっとなるほどと思えた。
Ce n'est rien. Ne pleure pas. Je le rattraperai.

2017年6月17日

(追記1)
Chaque jour qui passe m'apporte de la force, de la jeunesse et du bonheur.... Chacun de tes sourires m'allège d'une année....
「日ごとにわたしは新しい力を持ち、若くなり、幸福になるんだよ。お前たちが笑うたびに、わたしは一年若くなるのだよ。」

この「母の愛」が言ったセリフはとても好きなのだが、このあたりの母の愛の話を読みながら思い浮かんだのがこのマザーテレサの言葉。

「世界平和のためにできることですか?家に帰って家族を愛してあげてください。」

そうできない時でも、その帰れない状況自体にも幸福はある。
そちらのほうを幸福に感じがちな時があるが、そうとは限らないと思っておきたい。

じゃあ、そうできない時にどうするのか。
「思い出の国(Le pays du sovenir)」でおじいさんチルが言った言葉につなげたい。
Prier c'est se souvenir.
「お祈りすることは思い出すことだがねえ。」

そしておばあさんチルの言ったこの言葉

Chaque fois que vous pensez à nous, nous nous réveillons et nous vous revoyons.

子供がいたりいなかったり、家族がいたりいなかったり、人それぞれ状況は違うけど、その周りの人々を想い大切にするということが大事なんだろう。
父の日など一度もお祝いしたことはなかったし、今さらしてあげたいと思ってももう遅い。この想いを、今につなげなければどうしようもない。

2017年6月18日

(追記2)

J'apporte trois maladies: la fièvre scarlatine, la coqueluche et la rougeole....
- Eh bien, si c'est tout ça!... Et après, que feras-tu?...
Après?... Je m'en irai....
- Ce sera bien la peine de venir!...
Est-ce qu'on a le choix?...

猩紅熱と百日咳とはしかを袋に入れて、これから生を受ける弟。
病気が与えられることにも意味があり、その生に意味がないことはない。
ましてや30代まで生きられたのなら、してきたことは小さくはない。
周囲によい影響を与える度合いは、その生の長さには寄らない。

自分の体調に悲観的になることはない。

2017年6月24日

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