見出し画像

スピリチャルに生きる

 私は小さい頃から人の感じていることや考えていることがわかったり、次はどうしたら上手く行くかが直感的にわかるタイプでした。幽体離脱なんかもしていたので、スピリチャルは当たり前な感覚でした。

 でも、世の中はまだまだ現実重視で、心ではなくお金を求めている時代に産まれていました。私にとっては生きにくい時代でした。私の中にあるわかる感覚と出来る感覚と現実とのギャップがあまりにも多すぎたこと。スピリチャルなことは人から隠すことであり、口に出してはいけないことであり、おかしな人と思われないようにいつもカモフラージュすることでした。

 それでも内から湧いてくる自分の感覚がなんなのか答えをずっとずっと求めていました。インドまでヨガをしに行って答えを求めたり、永平寺で坐禅を組んでみたり、肉体の限界への挑戦とトライアスロンをしてみたりときっといろいろな人がスピリチャルジプシーと呼ばれることは大概したと思います。占いにももちろんハマりました。過去生できっとやっていたのでしょう。すぐにわかりやれば的中率はほぼ・・・なのですがここには私が本当に求める感覚の答えが見つかりません。私には魅力が少なすぎて(おこがましいのですが)求めるものではない感覚なのです。今でも少しはしますが、それだけで満足ができないのです。

 神社仏閣へ数限りなく参った経験があります。自分の中の特別意識がそうさせたのかもしれません。他の人と違っている私。神事なら私の個性を生かすことが出来るかもしれないとのめり込んだこともありました。でも、そこに私の求める答えはありませんでした。

 結局、本当のことを知りたい。私のこの能力をどう生かすことが一番いいのか数々の失敗の経験から学ぼうと決めました。そこで、トランスパーソナル心理学を基礎としたスピリチャリテイを学問としている先生の元で学びました。学術的に学んだことで、私の体験や経験が整理されました。また、スピリチャル的な感覚を磨くためのいろいろな手法があることも理解できました。学問の世界で私の存在の正しさが証明されたようで、隠すべきことだったスピリチャリテイを公のものにして良いのだと自信がつきました。

 しかし、学問的に学ぶことは楽しく、私の自信に繋がりましたが、そこではスピリチャルな能力を磨くということが第一義になってしまっている空気感がありました。もちろんそこが求めている最終段階は違います。人間成長です。でも、出来ることに特別感があってだんだん私にとって居心地が悪くなってきました。それがなんなのかわからなく何年も学びながらその居心地の悪さを違和感としていました。

 結局、私は表向きの私とか本当はねと秘密を語るような生き方ではなく、あるがままに自分を正直に語り、学び合えるところにいたいのだと気づきました。スピリチャルは隠すことだったことを表現することへと扉を開ける時が来たのを感じました。 

 世の中が時を迎えてだんだんスピリチャルなことを求め始めた今、やっと自分のすることが見つかりました。

 スピリチャルなことは目に見えないだけに様々な解釈や憶測があります。どれも正解のようでよくわからないものです。私にも全容がわかっているかと聞かれたらそれは無理です。人間ですから。でも、スピリチャルに生きるとは今ここの現実の一つ一つを大切にしっかりと地に足をつけて感じながら学びながら生きるということだと思うのです。スピリチャルすぎてふわふわしていた私がやっと日常とのマッチングの中での自分を見つけました。

 スピリチャルを日々にどう使っていったら日常が心豊かで幸せな暮らしになっていくかがわかってきました。それをスピリチャルティチャーとして教育現場に長年いた誰にでもわかりやすく伝える者として歩んでいきたいと思うのです。

ありがとうございます。サポートいただいたお金はワークショップ開催等の費用に充てさせていただきます。