甲冑を脱ぐ

 ずっと生きてきて、知らないうちにまとっていた甲冑。

 どうして人よりもこんなに生きづらいのだろうか?
 どうしてちょっとしたことで笑うことが出来ないんだろう?
 みんな、小さなことでもすごく笑えて幸せそうなのに、私と何が違うんだろう?

 それは、長い間の疑問でした。

 共感力が高く、人の想いが透けるようにわかってしまう。感覚が敏感で直感力も高く、人が表向きなことと腹の底が違うと一瞬で違和感でわかってしまう。正義感も強いので、それを許せず戦ってしまう。そんな繰り返しだったような気がします。

 スピリチャルな法則があって、チャンネルが小さい時から開いている人は、辛い幼少期を過ごしているということ。それは、辛い状況だから現実逃避するから、別次元へ離れやすい。確かに!
 そして、辛い経験をしたからこそ、それを克服したなら、それが人のお役に立ち、能力と経験が生かされ役に立てるということ。確かに!
 だから、この世でスピリチャル的に能力を開いて何かをしようと使命感を持って生まれた魂は困難な状況をあえて選んで生まれてくる。納得でした。

 「なんとなくそうなんだろうなあ」と思っていたけれど、私が信頼できそうだと感じていたスピリチャル系の方の発言を聞いて、妙に納得しました。長年、いろいろなところへ行っても腑に落ちなかった思いがすっと溶けるような感覚を覚えました。

 スピリチャルな潜在能力を開花するためにあえて大変な幼少期を過ごすことは理解できましたが、それを乗り越えることは並大抵ではないこと。私もたくさんのスピリチャル系の方と関わってきましたが、今一つ人間性の部分でどうしても信頼と安心感が持てず、この人ならと思える人に出会えることができませんでした。すごい能力をお持ちなのだけれど、どこかで何かがかけているような不安定さだったり、いつも感じる言っていることと本音のところの微妙な差を感じていました。

 スピリチャルな能力はきっとあるのでしょう。でも辛い幼少期を過ごすということは人よりもたくさん傷つくということ。
 その傷をちゃんと癒そう、そこを見つめて生きていこうとする姿勢がとても大切だということに気がつきました。
 それには、一人では難しく、本当に愛を持った人々とのふれあいと的確な導き無くしては再生できないこともわかってきました。

 なまじっか能力があるだけに自分でできると邁進しがちですが、それはスピリチャルな能力なだけで、人間的な心のバランスを取るためには、調和された人間性に目覚める必要があるのです。それには、避けて通ることができない自分見つめ、そして気づきの数々です。癒しと内観はセットで、本当にそれに取り組もうと思ったら、時間がかかることを承知で向かって行くこと。向かって行ったら、必ず必要なサポートや人や場が現れ、現状の繰り返しから逃げている時よりもずっと手応えがあり、まるで台風の目に向かっていくような感覚です。しかし、逃げなくなった分、それは最短距離で、いつしか通り抜けられるのだと思うのです。時間的に言えば一瞬ではありません。思ったより長くかかるけれど、過ぎてみれば本当にあっというまで長くぐるぐる堂々巡りをしていた時よりもはるかに短い時です。

 ずっと何かと戦い続けてきた自分が、少しずつ変化していきます。私は全身にまとっていた、鎧が甲冑がある日ほとんど無いのに気がつきました。きっと自分が傷つくのを無意識に恐れ、全身守りの体制で重たいものをずっと着て引きずっていたのだと思うのです。

 甲冑を脱ぐということは、私自身で OKということ。裸の生身の私で生きていけるGOサインです。この感覚はとても大切で、甲冑を脱いだからこそ、人と本当に関わることができる。相手も生身の人間だときっと認めてくれるのでしょう。無意識に張られた防衛戦が無くなるから、すっと人との距離感が身近になるのかもしれません。また、甲冑からは見えなかった私という素敵さが見てもらえるということですね。

 私と同じような人がいるはず。もっと若い世代にくすぶっている能力を持て余していてバランスが取れない人がいるはずだと思うのです。私はきっとたまたま先に歩んで来ただけ。それを人と分かち合うことができたら、私が先人に導いてもらえたように、自分で甲冑を脱ぐことを伝えることができたらと願うのです。

身にまとう
 重たき生命の
   甲冑を
ほろりと脱ぎ去る
 ここちよきかな

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