ロラン・バルトのテクスト論「作者の死」の限界

哲学者ロマン・バルトは「作品と作者は切り離して考えるべき」と言いました。どういうことかというと、作品において、「作者の意図」は重要でなく、「書かれたもの」こそが重要であるということです。

もちろん、作者が作品を仕上げれば、その作品はもはや作者の干渉を受けることはなく、作者はその後も歳を経ていくのですから、作者からは離れていきます。

しかし、作者が社会性と人格性をもつ人間である以上、「作者の意図」を切り捨てることは現実には無理だと思います。芸術に関わる人なら、もちろん「楽しい時に楽しいものを」「悲しい時に悲しいものを」作るものではないということは説明不要だと思いますが、その時(その時代)、その人でないと作れない作品というのは存在するのです。

ベートーヴェンの第九はベートーヴェンの信念とあの時代背景抜きではあり得なかったし、マーラーの第9番も音楽監督の地位を追い出され、娘の死や自らの心臓病(当時は治療法がない)が発覚したその時でなければありえなかったはずです。あるいはショスタコーヴィチの作品も、体制の判断次第でいつ自信が処刑されるかもわからないという旧ソ連の共産党体制という文脈抜きにはほとんど理解ができないでしょう。もちろんそれは演奏においても「この時しかありえない」名盤はあります。


※拙作ですが、ピアノソナタ第5番イ長調はまさにそんな曲で、長調の曲ですし、地味で短い曲だし、ドラマ性があるわけでもないし、何か際立つ点があるわけでもないのですが、その瞬間しか作れなかったし、私にとってはかけがえのない思い出であり、もう二度と戻れない過去でもあります。

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