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現代社会を俯瞰する記事の紹介



現代社会を俯瞰する記事の紹介

面白かったブログ記事のリンク+僕のコメント(感想)


記事はすべてインテグラル・ジャパン 鈴木さん の記事



共感よりも重要なこと


http://norio001.integraljapan.net/?eid=429#gsc.tab=0

鋭い現代起業家批判がまずすばらしい。そして次に、われわれは民主主義社会に生きているようで、実際には「民主主義的」な手続きで社会が運営されてるとはとてもじゃないけど言えないことが指摘されていて、そこも非常に鋭い視点で素晴らしい。
また、かっこいいミッション・ビジョン(それはだいたい"民主的"な価値観に基づいた高尚なもの)を、無批判に株式会社で追求する(経済の論理を前提に考える)ことには大きな落とし穴が潜んでおり、そこには改めて注意しべきだと感じた。われわれはすぐ魂の目的を、資本主義のゲームに当てはめ矮小化するという落とし穴にハマってしまう。

我々が見落としている論理(資本主義に代わる多観点のゲーム)を発見していくことがここでは非常に重要になると思う。おそらく、経済の観点に代わる認識の体系として成り立つものには、福祉の観点・自然共生の観点・物の面での人の幸福追求の観点・心の面での人の幸福追求の観点・医療等健康の観点・心政治(自治)の観点・霊的な観点など、さまざまなものがありそうだ。



「個体能力主義」


http://norio001.integraljapan.net/?eid=433#gsc.tab=0


われわれは環境の生き物である。ということを思い起こさせてくれる。この現代資本主義社会では、われわれは環境の変数を無視して、個体の能力の如何であらゆる結果が生ずると断定する「個体能力主義」にすぐ陥ってしまう。そしてその考え方はそのまま、自分を現代社会への適応のための努力・研鑽に駆り立てることとなってしまう。また人を能力があるか無いか、その人が何の能力を持っている人か?でレッテルを貼り、その人間の「価値」を勝手に判断して、「人」そのものとしてそのまま理解する/接する という関わり方をいつのまにか放棄しやすくなってしまう。そうした時代環境であり、思想空間に、我々は身を浸してしまっている。

人の能力は、もっとコミュニティや環境、タイミング・文脈に依存すると自覚する視点は言うまでもなく重要で、またどうやったら自分の接するコミュニティや環境を良いものに変えられるか?そのためにどのような働きかけが行えるか?と継続的に考えてゆく視点も重要になるだろう。部族としてのコミュニティ、自分の信ずるコミュニティへの忠誠と貢献がここでは重要になってくる。

例えばあるコミュニティや組織の中に、意図して共通言語をつくることや、自分の組織における"文化"そのものに対して無自覚でいるのではなく、自覚して/意識して、良いものに変えていくことで、お互いに相手の能力を発揮しやすい環境をつくっていくことは良い実践であると思われる。 もちろん政治の領域など、より大きな環境に積極的に目を向けることも、環境変化に対する重大な一歩になると私は考えている。



貨幣と神学、優生思想

http://norio001.integraljapan.net/?eid=428#gsc.tab=0


中世の教会から配られる免罪符と、現代社会の貨幣を同様のとのとして見る姿勢は面白い。僕の今の考えとしては、われわれは実際に現実を動かしている「貨幣」の影響力を、現代社会を生きる上で無視できない。なのでどのように「貨幣」を利用し、付き合っていくかは我々の人生の中で必ず考慮してしまうことだと思う。しかし「貨幣」の扱いについて考える瞬間は、自分が現実的問題と格闘するときに考えるときに閉じるべきであって、「貨幣」獲得競争を絶対視し、その競争に破れた人間を見下す思想はめちゃくちゃこの時代特有の独善だよねと常に認識しておく必要があるんじゃないかな
つい金銭的に分かりやすい成果を出してない人の価値を今の社会の人たちは見誤りがちでは無いでしょうか。



真に健全な「声」とは・・・

http://norio001.integraljapan.net/?eid=426#gsc.tab=0

今の社会、特に企業社会では、ある組織の存在価値や、ある人間の存在価値そのものが「どのような機能を発揮し、なんの効果をもたらしてくれるのか?」に集約されてきてしまっているのではないでしょうか?
そしてまた我々は、誰の何の役に立てるか?という「商品の効果・効能」をジャッジする目で物事を見すぎているせいで、お互いに傷つけあい、自分自身を傷つけている。
まさに、資本主義社会の元で、人間までもが「商品」となっているというわけです。

以下記事より抜き出し

 
 
"ここでわれわれが注意すべきは、「存在価値」を問うこうした発想が本質的に機能的な価値観にもとづくものであるということだ。
即ち、ここでいう「存在価値」とは、あくまでもその組織が機能的存在としてどのような活動を展開し、利害関係者に対してどのような価値を提供できているのかを示すものであるということだ。
端的に言えば、その価値とは、その組織が他者に肯定的に評価される「貢献」(service)ができるその能力に依拠するのである。"
 
 

 
 
"たとえば、現代社会においては、個人の存在価値とは、基本的に、その個人の市場価値に還元されることになる。
即ち、その人の存在価値とは、その人が現代の経済機構の中でどのような機能を発揮し、どのような価値を創出できるのか? という問いにもとづいて導かれることになるのである。
そこには、その存在そのものに内在する価値に目を向ける発想は希薄である。"
 
 

 
 
"そうした意味では、今日、われわれの社会が必要としている「声」とは、「希望」や「志」や「構想」を語る麗しいものではなく――実際のところ、そうしたものはわれわれの社会を息苦しいまでに覆い尽くしているように思われる――この時代と社会に適応しようとする中で自己の中に生み出された痛みや苦しみや悲しみに支えられたものであるのかもしれない。"
 



"機能主義が社会を支配するとき、われわれは自己の中に存在する弱さや脆さを抑圧することを求められることになる。
そして、そのように抑圧されたものは、「影」(Shadow)となり、世界に存在する「弱さ」や「脆さ」に対する攻撃性に形態を変えて、われわれの意識を呪縛することになる。
みずからの内に生じる苦痛や苦悩を――それから逃げることなく――受け容れて、それを背負いながら生きることを「英雄的態度」(heroism)として意味づけするとき、われわれの攻撃性は、しばしば、そうしたものを拒絶することを選択した「非英雄的」な者達に対する攻撃性として表出することになる。
「こうした苦しみを背負うことは責任ある人間として生きることの必須の条件であり、それを拒絶するのは弱いこと・狡いことだ」という想いに執り憑かれるのである。
こうしてしらずしらずのうちに傷ついた者が傷つける側に回るという循環が生まれていくのである。
皮肉にも、社会人として責任ある生き方をしたいという誠実な意志をそなえた者達が、正にそうした誠実さゆえに、痛みや苦しみを過剰なまでに背負うことになり、そして、それを他者にも――時として善意にもとづいて――強要していくことになるのである。"
 
 

特にこの一文
【今日われわれの社会が必要としている声とは、この時代と社会に適応しようとする中で自己の中に生み出された痛みや苦しみや悲しみに支えられたものであるのかもしれない】

ここに合致するものは、
人間の『語り』  『魂からの声』  であり、
それはまた非言語的言語(芸術・あそび)として表出するものであると思っている。
それは個人が夜に見る夢をそのまま表出させるような、
各個人が内的に生きている現実を、表現し共有・共鳴していくことであると思われるのです


以上、記事の紹介とコメントでした

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