日本代表は時代の写し鏡である
という趣旨の話を2008年の6月にmixiに書いた。久々に読み返した。
以下それの引用です
もう10年前かこれ書いたの
引用ここから
今の代表にのめり込めない理由は、
「テーマが見えない」ことだと思っています。
日本代表は社会を映す鏡で、
そこに潜んでいるテーマには何がしかの社会性があるはずなんですよ。
98の岡田ジャパン。
グローバリゼーションの萌芽において、世界の中での立ち位置を模索することを迫られた時期。
岡田監督は列強との距離を見据え、5バックと精密な中盤の三角形で挑んだ。最終的な結果はいまいちだったが、当時はあのアプローチしかなかったのだと思う。
02年のトルシエジャパン。
共同体の崩壊が始まる中で、時代は強烈な父性を要求し、トルシエはその期待に応えた。
育て上げたチルドレンが集い、強固なディシプリンで統制された彼のチームには規律を超えた一体感があった。それは古きよき時代の共同体のあり方を感じさせるものであり、人とのつながりに飢えていた人々がそれに熱狂した。
06年のジーコジャパン。
自由主義が跋扈し、自己責任が叫ばれた時代に、ジーコはまさにその流れに忠実なサッカーを展開し、最終的には粉々に砕け散った。
「自由」と「責任」の関係性を誤って解釈してしまった代償は大きく、敗戦の後には完全なる焼け野が原が残った。ジーコのやり方は気に入らなかったが、時代が彼のサッカーをそうさせたのかもしれない。
そしてオシムジャパン。
規律から自由への大転換を経て、共同体の再構築が足もとから始まった時代に、「日本化」というキーワードが掲げられたのは当然のことだったのだと思う。日本らしさを希求しながらも欧州の香りが散りばめられたアプローチは刺激的だった。
そんな流れで考えたときに、今の岡田ジャパンに何があるのだろうか。
なぜ「接近、展開、連続」だったのか?
今の守備ありきのサッカーのベースにある思想は?
その辺の物語が見えない限り、不特定多数の人を巻き込む大きなうねりは生まれないのでしょう。
引用ここまで
まあ何の根拠もない思い込み話、ただの俗流社会学だけど、この「〇〇は時代のあり方を反映している」的な話昔から好きだったんだなーと。
(前の会社の上司の影響)
数少ない国民的コンテンツであるがゆえに、そこにはその瞬間の「国民性」が宿る、のかもしれない。
で、これを後講釈も含めて続けると、
南ア
最後まで不明だったけど、最後の最後で「みんなで頑張る」「俺たち下手なんだから!(闘莉王)」で一致団結した。これぞ「日本らしさ」。ここでの「絆」的な話は震災以降のあれこれを示唆していたんだろうか。
ブラジル
「日本すごい!」と「自分たちのサッカー」のつながり。他者のない自画自賛を後押ししてしまう世の中の空気こそあのチームの原動力であり、そしてあのチームが抱えていた問題そのものだった。
ロシア
日本中で一斉に噴き出しつつあるマネジメントとガバナンスの問題に飲み込まれた。ほんとにこれ以上ない形で飲み込まれた。成果がでなければ当然地獄、成果が出ても検証不能×クソ組織温存で地獄、というサッカー界の置かれた状況こそ将来の日本の姿か。
書いてて虚しくなってきた。
心のどこかで「別に勝たなくてもいいや」って思いながらワールドカップを迎えたくなかったなー
悲しい
宣伝ですが、この「〇〇は時代の写し鏡」理論で夏フェスについて1冊本書いていますので良かったらこちらもぜひ
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