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5.コミュニケーションの「修業時代」

大庭葉蔵はコミュニケーションに対して倫理的であったろうか。大庭葉蔵はぼくなのだから、おそらく、その答えは「否」であろう。(「神様みたいに良い人1」)大庭葉蔵は上辺だけの甘い言葉並べ立てていた。しかし、小学校の友人である竹市と結婚相手のヨシ子にだけは倫理的であろうとしたーーと思いたいーー。

いびつな形でもいいから言葉を紡いで、丁寧に線を繋いでいくことが、コミュニケーションの倫理ではないだろうか。

「きみの眼をみれたら」

コミュニケーションの倫理。それは人間関係の中にある真摯さのことだ。相手の目を見て話す、聴く。当たり前のことが一番難しい。

「おい、なんか様子がおかしいな、と自分で気づきました。もともと目を合わせて話すのは苦手なんですが、いつも以上に視線が散らばっている。お道化ようとしても、なんか緊張して、言葉に詰まっちまう。仮面の下を覗かれたような気分でしたが、不思議とイヤな気分にはなりませんでした」

「生田Q蔵の修業時代」

生田Q蔵はみんなにとって「良い人」であった。しかし、その中でもQ蔵は真野に対してはできるだけ倫理的であろうした。しかし結局、Q蔵は真野にとっても「良い人」であった。

Q蔵は真野の本名を知らない。真野は芸名だ。Q蔵は真野の本名を知りたいと思いながら、聞き出すことができなかった。名前を聞くことにQ蔵は大きな意味を見出していた。Q蔵は奈良に住んでいて、文学部で、映画『君の名は』も当然観ていたと思われる。そんなQ蔵に万葉集の知識がなかったとは考えられない。つまり、Q蔵にとって「名前を聞く」ことはプロポーズ程の大きな意味を孕んでいたーーもちろんこれは全てなんの根拠もないQ蔵の妄想であるーー。

もしかしたら、Q蔵はもっと自分のことを聞き出してほしかったのかもしれない。もしかしたら、この真野という人は自分を理解してくれるかもしれない、と。しかし、もし自分が真野の本名を聞き、あるいはその他の質問をし、そのうえで真野が自分に興味を持ってくれないのではないかと思うと、怖くて怖くて堪らなかったのである。すんでのところでQ蔵は真野を信頼しきることができなかった。

そういえば、真野は作中で一度もQ蔵の名前を呼んだことがなかった。ずっと「先輩」と呼んでいた。「先輩」とは人間関係を表す一般名詞であり、あえて悪く言えばただの記号である。あるいは記号以下かもしれない。それをQ蔵は直感的に感じ取っていたのかもしれない。だからQ蔵は怖くて、真野の本名を聞き出せなかった。(「ケンカもできない」)

名前を呼ぶとはどういうことか。相手を相手の名前で呼びかけることと、「先輩」とだけ呼ぶことに違いはあるのだろうか。最も大きな違いは人の名前は固有名詞であるということだろう。つまり、相手を相手の名前で呼びかけることは、固有名詞として、つまり唯一無二のものとして認識しているということではないだろうか。

もちろん真野の「先輩」呼びの中に「生田」や「Q蔵」が含意されていると考えることは可能である。しかし真野の意図はQ蔵には伝わらない。この意味で2人の関係には1本の断絶線が走っている。コミュニケーションの不成立である。

しかしコミュニケーションとはこの線をときに踏み越えることでもあると思う。さもなければ、人は友情を育むことも、恋愛も、そしてケンカすらも満足にできない。

「ケンカもできない」

もしかしたら、コミュニケーションの倫理とは、一見矛盾しているが、ときに人間関係の間に走る線を不法に踏み越えることを言うのかもしれない。ぼくは「生活」を共にしている人、大切にしたい人に対してはできるだけ倫理的でいたいと思っている。しかし、自分でも驚いてしまうような結論を導き出してしまった。これを実践するには、まだ少し時間がーーいや、時間は関係ないーー。これを実践するには勇気が必要だ。

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