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秋冷の一日:木曽路と松下村塾

かたりあひて

延び延びになっていた岐阜県恵那市行きが、朝夕がしのぎやすくなった秋冷の日に、ようやく実現した。古くから親しくしている友人が勤務している施設で講演するためである。

西に向かう新幹線の車内で、安倍元総理の国葬での弔辞を思い出した。

「かたりあひて 尽しし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」

この歌は、2年前に突然凶弾に倒れ帰らぬ人となった故安倍晋三元総理の国葬の際に、菅義偉元総理が友人代表として話された弔辞の中で引用された。山縣有朋(1838-1922、天保9年〜大正11年)が、長年の盟友である伊藤博文(1841-1909、 天保12年〜明治42年)に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌であり、幕末から明治維新以降まで長く続いた「伊藤―山縣」の関係(写真1)を、十年来の「安倍―菅」の関係になぞらえたのであろうが、菅氏の朴訥とした語り口がその無念さを一層引きたたせ、多くの国民にも深い感銘を与えた。

写真1:道の駅萩往還にある山縣有朋、
桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文の像

松下村塾主要人物の名言

山縣、伊藤とも、吉田松陰に強く影響されているが、門下生という点では少し後塵を拝している。

吉田松陰(1830-1859、文政13年~安政6年)は、わずか9歳で長州藩の藩校である「明倫館」の兵学師範に就任し、叔父から引き継いだ「松下村塾」(注1)を27歳で開塾したが、その二年後に「安政の大獄」に連座したということで、29歳で死罪となった。辞世の句として、以下の二編はあまりにも有名である:

「身はたとひ 武蔵の野辺に 
   朽ちぬとも 留め置きまし 大和魂」

「親思う 心にまさる 親心 
   けふのおとずれ 何ときくらん」

「松下村塾」から、多士済々の人物が輩出されているのは、幕末の歴史ファンならずとも誰もが知っている。中でも、久坂玄瑞(1840-1864、天保11年~元治元年)と高杉晋作(1839-1867、天保10年~慶應3年)はその双璧とされ、松陰は「晋作の識見を以て、玄瑞の才を行っていけばできないことはない」と評している。

久坂玄瑞は、蛤御門の変で無念の死を遂げたが、それが十分窺える辞世の句を残している。

「ほととぎす 
   ちになくこえはありあけの 
   つきよりほかに しるひとぞなき」 

革命児、風雲児と謳われた高杉晋作は、「奇兵隊」を率いて、藩論を倒幕に統一することに成功し、桂小五郎(木戸孝允、後述)と一緒になって長州の代表として薩長盟約を締結した。幕府軍との第二次長州征討(四境戦争)に勝利するが、肺結核に侵され死去。

辞世の句は「おもしろき こともなきよを おもしろく」で終わっているが、看病していた野村望東尼(勤皇の歌人)が「すみなすものは こころなりけり」とつけたといわれている。

木曽路中津川宿に、桂小五郎の痕跡が!

さて、旧友と地酒を酌み交わし郷土料理に舌鼓を打った明くる日は、朝早くから岐阜県中津川市に移動した。遠くに東海一の高さを誇る恵那山(写真2)を見ながら、中山道(木曽路)で人気のある約15キロで繋がる馬籠宿(写真3)、落合宿、中津川宿を踏破した。

写真2:コスモスと恵那山
写真3:坂道の中にある馬籠宿

中津川宿には桂小五郎(1833-1877、天保4年~明治10年)の「隠れ家址」(写真5)があることを初めて知って、幕末の歴史好きと思っていた自分の「不明」を少しばかり恥じた。

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