日本史における84年の奈良時代⑦最終章 ★桓武天皇のさらば平城京
奈良時代最後の桓武天皇は、称徳天皇崩御により父親が急遽光仁天皇として即位するが、母が百済系渡来人の氏族であったので皇太子ではなかった。
光仁天皇と聖武天皇の娘、皇后井上内親王との間には他戸親王という皇太子がいた。ところが、井上内親王が夫の光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、連座して他戸親王の皇太子も廃される。更に光仁天皇の亡くなった姉または妹を呪詛して殺害したとして、井上内親王と他戸親王は身分を庶民とされ幽閉先で母子共に急死する。この後に桓武は皇太子となる。この事件は桓武を皇太子にしたかった藤原式家の陰謀説として残る。
781年に桓武天皇が即位する。すぐに弟の早良親王を皇太子にした。
桓武天皇は、平城京の仏教勢力が強くなり政治にまで介入するのを嫌い、また平城京の水運能力にも限界があり、784年長岡京へ遷都する。
長岡京では工事責任者の藤原式家の種継が暗殺される。犯人たちは逮捕処罰されるが、その中に皇太子である早良親王がいた。親王は廃皇されて流罪となるが、移送中に無実を訴えて絶食し絶命する。その後も桓武天皇の身内が亡くなったり、病気になったり、疫病や洪水も起こってしまう。
桓武天皇は井上内親王親子や早良親王の祟りを恐れたに違いない。
こうして794年に千年の都平安京に遷都し、奈良時代が終わる。
奈良時代は84年間という短い時代だったが、権力を巡って陰謀や企み、呪詛など権力への執着、虚栄心や嫉妬など人の欲深さを示す事件が次々と起きた。時代が進むとその渦はどんどん規模が大きくなっていく。もうしばらくは祟りの効力も認められる時代なのだが。
先の時代に動き始めた大宝律令を試行錯誤しながら、律令国家、天皇を中心とした中央集権国家が進歩した時代でもあった。日本人は大陸の文化を遣唐使などで積極的に取り入れて真摯に研究している。その後独自のアレンジを加えて自分たちのものにしてしまうのが日本スタイルだ。
そして桓武天皇は後に活躍する桓武平氏の祖でもある。
【REG's Diary たぶれ落窪草紙 10月28日(月)】