あをによし~奈良へ⑤ 凍れる音楽 薬師寺
薬師寺は奈良市西ノ京町に建つ法相宗の大本山。興福寺も法相宗の大本山だが、宗派としての繋がりはなく経済的に自立している大規模寺院同士ではそこは問題ではないようだ。近鉄橿原線西ノ京駅からすぐの場所にある。
薬師寺は680年天武天皇が皇后(持統天皇)の病気平癒を祈願して藤原京に創建したのが始まりとされる。今でも橿原市には本薬師寺跡が残る。
平城京遷都に伴い現在地へ移った。春日大社の南に新薬師寺があるが、これは光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して建てた官寺で別物である。
薬師寺は973年の火災で多くを焼失し、その後も1528年に戦国大名化した筒井順興の勢力拡大の争いで、これに対抗した超昇寺氏、矢田中村氏、鷹山氏の三人衆が薬師寺を含む五条から九条一帯の郷村に焼き討ちをかける。
これにより薬師寺の西塔、金堂、講堂、中門などが焼失する。江戸時代には一部再建もされるが、創建当時の建築物で今に残るのは東塔だけとなる。
薬師寺が白鳳時代の伽藍を取り戻すのは高田好胤氏の登場する昭和の戦後になってからのこと。彼はユーモア溢れる説法で薬師寺の名物住職となった。1967年に管主になると、金堂、西塔、中門、回廊などを再建する。問題は資金だった。好胤は写経を納める供養料を集める勧進を始める。全国を駆け回り、出版、講演、仏像展示なども行い資金集めを成し遂げた。彼の没後、大講堂が落成し、薬師寺は蘇った。
7世紀初頭に西遊記のモデルとなった玄奘三蔵が17年かけてインドへ仏教教義の修行を行う。その時彼が学んだのが法相宗のもとになる唯識教義であった。中国に戻った玄奘の弟子の慈恩が法相宗を開創する。日本からの留学僧、道昭や智通らによって日本にも伝わる。法相宗によると「末那識(まなしき)」や「阿頼耶識(あらやしき)」と呼ばれる深層意識が心の奥底にあり、人の認識はすべて自分が作り出したものとされる。非常に哲学的であり難解な教義だ。仏教は釈迦が亡くなっても彼ならどう考えるかを研究し、仏教は進化を重ねて来た。
このように法相宗は学術仏教なので、葬儀や法事を行うこともなく、檀家制度がないので、高田好胤の資金集めはたいへん評価されている。凄い。
金堂を挟んで両側に建つ西塔と東塔、やはり一番美しいのは薬師寺かな。
かつて東京美術学校の設立に関わったフェノロサは、この寺を訪れた時に、ドイツ文学の表現を引用し「凍れる音楽」と讃えという。
【REG's Diary たぶれ落窪草紙 11月24日(日)】