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日本の古来からの食べ物 蕎麦

 おにぎり、うどんときたら蕎麦を取り上げない訳にはいかない。
故郷長野県は日本屈指の蕎麦処でもある。

 ソバはタデ科の植物でロシア、中国、ウクライナで多く栽培される。当然消費量もこれらの国が多い。しかし、蕎麦をすすっているロシア人を見たことがない。ロシアやウクライナではソバの実を粗くひき粒のまま炊いて、おかゆにして食べるようだ。ロシアではソバのおかゆ、カーシャが人気らしい。世界ではソバの実をひいたソバ粉を麺やパンにしたり、クレープやガレットにして広く食べられているようだ。

 発祥は中国南部のチベットとの国境付近が有力で、日本へは稲と同様に大陸から伝わって来た。縄文時代の遺跡からソバの花粉が見つかっている。
 文献では平安初期に完成した続日本紀に、奈良時代の元正天皇の詔として、干ばつの対策としてソバや麦の栽培をうながす記述がある。水の少ない寒冷なやせた土地でも栽培が可能で、三か月で収穫可能なソバは非常時の備えとして利用されていた。作付け効率や製粉技術がないこの時代は稲が主役だった。ロシアや山岳地帯でも作られる理由もわかる。

 うどんの回でも紹介した鎌倉時代の聖一国師が宋から製粉技術や麺、饅頭などを伝え、特に水車による製粉は粉物文化を普及させるに至った。
 しかし、ソバは水を加えても粘りが出ないので麺状のものは切れやすい。当時はソバ粉を練って団子や薄く伸ばしてそばがきのように食べられていた。小麦粉をつなぎとして麺の形で普及するのは江戸時代になってからだ。今でもソバ粉十割の蕎麦は技術が必要とされる。

 1574年に長野県木曽の定勝寺に仏像修理の職人たちに麺状の蕎麦きりを振る舞ったという記録が麺状の最古のものとして残る。
 豊臣秀吉が大阪城の築城を始めた頃、その資材置き場となる砂場で営業していた蕎麦屋が江戸へも進出して、後に砂場の屋号が広がった。
 また江戸の団子坂の竹やぶの中の蕎麦屋が藪として有名になりこの屋号も各地へ広まった。藪はそば実の皮をひき込んだやや緑がかった蕎麦が特徴だ。これに対して長野県の更級郡に由来する更科蕎麦は実の中心の白い部分、一番粉を使うため白いお蕎麦が特徴となる。いずれも名店だ。

 江戸初期の蕎麦は茹でてちぎれないようにせいろで蒸して、そのまま客に出していた。木枠に竹すだれのスタイルはそこから生まれた。江戸中期には従来の濃い目の汁に付けて食べるもり蕎麦だけでなく、蕎麦に汁をかけたぶっかけが流行り、それがかけ蕎麦と呼ばれる。この頃はつなぎも進化し茹でるのが主流となるが、水切りをよくするためにざるに入れて提供されるものもあった。江戸前の浅草海苔もよくトッピングされた。

 近代において蕎麦は日本独特の食文化として、立ち食い蕎麦、引っ越し蕎麦、年越し蕎麦など日本の生活にも密着し、その美味しさは香り、食感、のど越しまで楽しめ、各種ビタミンや食物繊維も多く含まれているため長生きの食べ物ともいわれる。干ばつ対策の非常食は今や日本を代表する文化にまで発展した。

【REG's Diary  たぶれ落窪草紙   8月6日(火)】

 

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