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【平安以前の藤原氏 完結】怨霊が暴れまわる平城京 この時代も怖い

 奈良時代の藤原氏の台頭は以前に書いたが、今日は完結したい。
中臣鎌足から藤原氏が始まり、その子不比等ファミリーが政治基盤を固める。不比等の娘宮子は文武天皇妃で聖武天皇を産む、同じく娘の光明子は聖武天皇妃で孝謙天皇を産む、息子四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はライバル長屋王を打倒し、公卿の要職を占め藤原四家(南家、北家、式家、京家)の祖となるも、天然痘で四兄弟は全滅。737年のことである。
 ここで藤原氏の隆盛は一時止まる。長屋王の祟りの話も出ちゃったしね。
 次に登場するのが、四兄弟の長男武智麻呂の次男である藤原仲麻呂。彼は優秀な人物で本を読み漁り、算術もマスターして出世街道を登っていく。
 しかし、四兄弟亡き後に政権を握ったのは橘諸兄だった。彼は皇族で光明子の異父兄だが藤原氏の直系ではない。彼は四兄弟と共に公卿になるが、天然痘を免れた。公卿の多くが病魔に倒れる中、橘諸兄は右大臣になり国政のトップに立つ。
 740年四兄弟の宇合の長男広嗣が太宰府に移されると不満を抱き、諸兄が重用した吉備真備と玄昉の更迭を求め反乱を起こすも敢え無く鎮圧。
 一方藤原仲麻呂は743年には参議として公卿の仲間入りを果たし、式部卿となって人事権を握る。仲麻呂と橘諸兄の権力争いが始まる。
 聖武天皇と光明皇后(仲麻呂の叔母)には後の孝謙天皇(女性)と生後間もなく亡くなる男子がいた。聖武天皇には他に一男二女を産んだ妻がいた。この一男安積親王は17歳で急死している。仲麻呂が毒殺した説が濃厚。
 749年聖武天皇は譲位し孝謙天皇が即位。仲麻呂は大納言に一気に昇進して左大臣橘諸兄を追い詰める。何しろ光明皇后・孝徳天皇が後ろ盾。
 この仲麻呂の台頭を止めたい諸兄の子奈良麻呂が、仲麻呂を殺害し独自の天皇擁立を謀るが事前に発覚し失敗。400人以上が処罰され、首謀者たちは一掃される。758年孝謙天皇が譲位し、仲麻呂と深い親交のある淳仁天応が即位する。仲麻呂の権勢は勢いを増し、恵美押勝の名を賜与される。
 760年に仲麻呂は皇族でない初の太政大臣になる。これが絶頂期。
 後ろ盾の光明皇后の崩御に続き側近たちを次々と病気で失い、それを補うために強引な人事で反感を買いまくる。
 ここで孝謙上皇が寵愛するあの有名な僧侶道鏡の登場だ。仲麻呂はこれに反対するが、孝謙上皇はブチ切れて出家し仲麻呂に襲い掛かる。結果、仲麻呂は謀反首謀者として平城京から逃亡。彼は権力のトップから10日程で悲惨な死を遂げる。淳仁天皇は廃位させられ、流刑になるがすぐ病死する。暗殺でしょうね。すかさず孝謙上皇は出家したまま天皇に返り咲く(歴史上唯一)。重祚した称徳(孝謙)天皇と道鏡の暴走は止まらない。ついに道鏡は天皇の座を狙うが、和気清麻呂らに阻まれた。そして771年に称徳天皇は病没し、道鏡も流刑になり没落。称徳は生涯独身で、子もなかったので後継には天智系の光仁天皇が立てられた。光仁天皇は周囲の要人がどんどん粛清されていくので酒のみの愚か者を演じて難を逃れたと言われている。光仁天皇の皇后は井上内親王、こちらは聖武天皇の娘さん、他戸親王という皇太子も産んでいるのだが、天皇を呪詛したとして、親子揃って皇后と皇太子を廃位されてしまう。
尚、この二人幽閉先で同日に死亡。暗殺か自殺か、これで天武系の皇統は途絶える。この事件は藤原式家が桓武天皇擁立のために動いたという説もある。しかもこの後天変地異が続き、またもや怨霊騒ぎとなる。
 さて次の天皇が桓武天皇、彼が794年に鬱陶しい平城仏教寺院を置き去りにし、平安京に遷都する。そして平安時代へ突入する。
【REG's Diary   たぶれ落窪草紙   2月4日(日)】
 


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