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【宗教】信仰は救いなのか、宗教が人類にもたらしたもの

 今回は今までの自分の印象だけで書いてみる。

 宗教を意識したことは殆どなかった。多くの日本人にとって宗教はそのようなものではなかったか。
 カトリック系の保育園に通ったが、両親も我が家から一番近い保育園を選択しただけだろう。家でも食事の前や寝る前には、お祈りをした記憶があるが、小学校へ上がるとそんな習慣も消えてしまった。
 祖母や祖父が亡くなった際には仏教の形式で葬儀が行われたが、日常の生活の中で仏教を意識した事もない。もちろん、お祭りや願掛けには神社に参拝するし、初詣やお盆にはお寺で手を合わせるし、クリスマスも祝ったし、厄年になると厄払いもした。これは宗教観に基づくものではなく、単なる歳時記にある行事のようなものだった。
 我が家は分家で仏壇もお墓もなかったが、両親の葬儀は希望により浄土真宗本願寺派の形式で行い、仏壇もお墓もその流儀に従って用意した。私も時が来ればそこへ入って行くのであろう。
 90年代の中頃であったか、新興宗教集団が日本を震撼させる事件を起こした。又、友人が宗教団体に自ら志願して入信したり、信仰が人を引き付ける状況に度々遭遇し、自分は何か僕然とした不思議さを感じていた。
 ニューヨークの有名な教会に観光した時のことである。高い天井や美しいステンドグラス、数々の有名人の葬儀を行い、映画の舞台にもなった教会で厳かな雰囲気を味わっていた。二十歳そこそこだろうか、ヒップホップ系の恰好をしていた黒人のお兄さんが席に座ってお祈りをしている。顔は涙でくしゃくしゃだ。彼は口を動かしながら必死に祈り続けた。涙を拭ううこともなく。私は見入ってしまった。見たことのない光景だった。
 
 人はいっとき生きていく辛さから離れるために、或る時は自分の平穏な暮らしを願うために、救いを求めて神に祈ることを始める。狩りの獲物を求めたり、豊穣を願ったり、猛威を振るう自然を恐れたり、生き続けるためには避けられない戦や争い、服従や支配、重労働や重税、不条理や理不尽、痛みや苦しみ、老いや死などを受け入れるために祈りを捧げてきた。
 民衆を救うために聖人が現れ、心の安寧のために様々な考え方を提示する。時としてそれは社会を形成するシステムになり、政治や統治の手段になり、人々を鼓舞し奮い立たせるのだが、また新たな対立や争いも生まれる。
 しかし、多くの人々が祈りを捧げることで、ほんのいっときでも苦しみや恐怖を和らげることができたり、不安から解き放たれ、来世の幸せを信じて救われたと考えると、人類の残酷な歩みに宗教は必要不可欠だったように思える。宗教についても色々考えてみたいと思う。

【REG's Diary   たぶれ落窪草紙    2月2日(金)】
 
 


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