「原作改変」に伴うダイナミックプロ作品と石川賢作品に関する誤解について

近日、原作改変に伴う問題の炎上により、あまりアンテナを伸ばしていない私にも、ダイナミックプロ作品や石川賢先生の作品への誤解が目に入るようになっています。

既に亡くなられてしまった先生の作品を好きな人間の一人として、ここにただのファンの一個人の見解ではありますが残したいと筆を執りました。

・ダイナミックプロダクションに所属する作家さんは基本的に作品のみを発表することに特化しており、個人の意見発信は限られている
・石川賢先生は06年に亡くなられている
・ここに残すものは石川賢作品を100冊ほど読んだ人間の個人的見解にすぎない

以上を念頭に置いた上で耳を傾けていただけたらと思います。


石川先生は原作クラッシャーなのか?

「漫画が原作である」という誤解と、原作から大幅な変更がない石川作品について

根本的な話なのですが、まず
「ゲッターロボ」や「バトルホーク」、「アステカイザー」などのダイナミック企画が東映やテレビ局と企画を起こし、テレビ放映と同時に連載されていた作品については「漫画が原作ではありません」。

ダイナミック企画と東映やテレビ局などの関係者で、共に作り上げた「企画書が原作である」とした方が実態には近いのではないかと思います。

この形式はダイナミックプロ作品にとどまりません。その以前からとなる石ノ森章太郎先生の仮面ライダーなど(石ノ森先生は石川先生の「戦友」永井豪先生の師匠筋に当たります)もそうでありましょう、この形式で作られた作品というのはテレビと漫画とで異なる展開が多くなっているとは推測ができます。

この原作に当たる企画書については具体例でしたら「ゲッターロボ」に確認できます。

*これ以外も含む「ゲッターロボ」に関する画像資料はこちらにまとめています

これらを確認する限り、石川先生の漫画版は基本的に企画における設定やコンセプトは守られています。
大幅な変更をしたサッカーから空手への竜馬の変更も、先に石川先生から「変えていいか」相談があったという話が複数残っています。(例:電子書籍版「ゲッターロボ40周年記念原画展」図録 23頁)
また、永井豪先生の「最初の設定を大切にしてくれていて、それを基盤に広げてくれた感じがします」という言葉も傍証となるかと思います。(電子書籍版「ゲッターロボ40周年記念原画展」図録 25頁)

以上から、
・漫画版が原作ではない=どちらかがどちらを勝手に変えたという話では根本的にない
・ゲッターロボに限らず、デビルマンなどを含む東映テレビ版とダイナミックプロの漫画版が同時に製作されていた作品群はその両方がその作品の大本(原作)であると言える
・1つの企画を元に分化した作品群であり、少なくとも「ゲッターロボ」という作品においては石川先生は企画時点の設定は概ね守られていた
・これらから、漫画版に一番近いのは東映版とも言える
ことはまず主張したく思います。

シナリオ展開など大筋が決定した後にコミカライズがされただろうものもあります。
ゲッターロボであれば、石川賢先生ではなく、桜多吾作先生のコミカライズなどで東映版のシナリオを元にしている話が複数見られます。

石川賢先生の作品であれば「変身忍者嵐 外伝」がそうです。
こちらの作品は実は石川賢先生のコミカライズの方が東映特撮版に近く、石ノ森章太郎先生の本家と言える漫画版の方が大幅にテレビ放映版とは異なった展開をしています。

実は石川賢先生の作品には、原作が明確である小説から大筋を改変していないものも複数存在します。
角川映画とのメディアミクス展開の一部であったのだろう「天と地と」、芥川作品のコミカライズなどがそうです。

これらから、石川先生は先方の「変えないでほしい」という要望があった場合にはそれを尊重していたのではないか、と推測できます。

大幅な改変がなされている作品について

これも誤解を受けているようですが、大幅な改変がなされているものに関しては、複数についてご本人から許可を得てのものだったという資料が残っています。

「魔界転生」は生前の山田風太郎先生から「自由にやっていい」と言われたことがインタビューに残っています。
恐らくここで、石川賢先生は前々から大ファンであった原作者ご本人へ思いを伝え「改変していい」という許可を得たために「魔界転生」後の山田風太郎作品コミカライズへも繋がっているのでしょう。

「アーモンサーガ」「闇狩り師 九十九乱蔵」についてはもっと明確で、「闇狩り師」についてはあとがきで夢枕獏先生自らコミカライズの条件が石川賢先生にお願いすることだったと明記があり、「アーモンサーガ」のあとがきには「その時も、今回も、漫画化していただく時の条件はただひとつであった。“自由に描いてください”」と書かれています。

また、小説が原作というわけではありませんが「サザンクロスキッド」に関しても、高千穂遥先生が原作を渡す際に「好きにして」とお伝えしていたとのXでの発言を確認しています。
(ご迷惑がかかることや許可なく個人の発言を引用することになるのではないかと危惧し、24年2月5日のポストであることだけ明記させていただきます)

他にもダイナミックプロ所属の作家さんが原作や原案である作品や、辻真先先生(東映版デビルマンの脚本担当でいらっしゃいました)が原作である作品もありますが、その作品以前からダイナミックプロと関係があった作家さんが多く、これらは「サザンクロスキッド」のようにコンセンサスは得た上での共同製作に近かったのではないでしょうか。

「全てがそうであった」とは確認が明確にとれない以上はファンであろうと言い切ることはできません。
不満のあった原作者さんもおられたかもしれません。
しかし、石川先生は石川先生なりに、原作と原作者を尊重されていたのではないかとその作品内容からも思います

改変自体が悪いのか、といえば否だと個人的には思います。
改変による作品の評価も後からついてくるものであって、改変による結果は当事者の誰も知り得ない話でもありましょう。
ですから、どのようになるにしろ、きちんと許可を取り、相手の意思を尊重すること。
そこで交わした約束は反故にしない、ということが何よりも大事なのではないかと思います。

余談:逆に石川先生の作品はどういった扱いを受けたのか

ここより下は記事冒頭に書いた理由から、上述のような証拠や傍証を簡便にあげることが難しく、一個人の考察や主観の推測に近いものであることは最初に記載します。
「ゲッターロボ」という作品に関する考察は多々記事をあげていますが、それらを前提とする部分が多く、きちんと一から説明することが難しいため、ここでは極端に簡略化し、考察の結果のみの記述になっていることも念頭に置いていただきたいです。

石川賢先生は原作とその作者さんを大事にしておられたのではないかと個人的には思っています。

しかし悲しいことに、その石川賢先生の作品の本質はダイナミックプロ公式が監修に入っていない多くの派生作品において大事にはしてもらえなかったと私は感じています。

元来、石川作品は全体に渡って「選民思想」「全体主義」の下に「個人の権利や尊厳を奪う」ものを一貫して「打倒すべき悪」であると描き続けました。
「他者を思うことこそが理性である」と、描き続けました。

他者、その権利や尊厳、意思を尊重するという意味での「個人主義」のお話を描き続けました。

しかし、そんな先生の作品の映像化などでは、その本質は軽視され続けました。
ダイナミックプロの公式監修が入っていない「ゲッターロボ」の派生作品群は漫画を好きな私には、その作品自体への好き嫌いや出来は別として、作品の内容を理解しているのかという点において眉を潜めるものでした。

「真!!ゲッターロボ 地球最後の日」を最初に担当された今川監督は石川賢先生の作品に深い理解があったのでしょう、石川先生も珍しく明確な絶賛のコメントを残されていますが、監督が交代された4話以降は言うまでもなく混沌としておりました。

まだマシである「真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ」ですら「自分が」という「利己主義」を結論に据えています。
三人で乗るからこそ協調性を必要とすると漫画でも東映でも言われていた機体ですのに「自分が」とはどういうことでしょう。

「新ゲッターロボ」に至っては、石川作品では一貫して悪と描かれた「選民思想」と「全体主義」はそうと描かれず、モラルがあるからこそ苛烈な怒りを表していた人物たちは、モラルがないから暴力を振るうというひどい改変のされ方でした。
プロットから漫画版の反転構成をしているにも関わらず、それを明確に告知もせずに、新解釈であると誤認されるようなタイトルや広告で出すとは詐欺にも近いと感じました。

(これは一消費者として虚偽であると私は腹を立てています。
プロットから逆転して結論も真逆な作品である以上、リブートやリメイクですらないアンチ二次創作ではないですか。
食品であるなら甘いと宣伝しておきながら辛いものだったとか成分表示が虚偽であったに近く、当時現物買ってたら消費者センターに連絡して詐欺ではないかと訴えることを検討する程です)

ゲーム「スーパーロボット大戦Z」以降の該当シリーズでは、「真!!ゲッターロボ 地球最後の日」名義ではありますが実質には「新ゲッターロボ」設定を元にしたためでしょう、「ゲッター線に選ばれた特別な流竜馬」などという選民思想にクリティカルに繋がる存在が描かれました。

石川先生没後の作品となりますが、ダイナミックプロ公式監修のクレジットが無い「ゲッターロボ デヴォリューション」という漫画作品ではこれらのネット解釈とも言える設定が根底に置かれた上で「有事であれば性暴力を受けたことも許し手を取り合うべき」とすら読める描写が終盤にありました。

石川先生はファンの私から見ればここまでむごいことをされたにも関わらず、残っている資料の限り、生前それらを一切否定することはありませんでした。不満を述べず、怒りも見せませんでした。

けれど、思うところがなかった訳ではないと思います。

石川先生の「ゲッターロボサーガ」は「號で綺麗に完結している」という認識が複数の資料から読み取れます。

では、なぜ「アーク」が描かれたのでしょうか。

生まれは「踏みにじられたものたちの怒りの代弁者」たる流竜馬の血筋であるはずなのに、理性に薄く、理不尽に抗えず、善悪の明確な区別がつかず、正しく怒ることができないのが拓馬でした。
(これらもまたアニメ化で拓馬は善悪の区別がついているとされていましたが、言動を変えていないので無理があります)
希望を残し完結したはずの世界は、滅びに向かっているのがアークという世界でした。

その後の作品も幾つかも読むに、石川先生はあれらの改変に思うところがあったように私には思えてなりません。
様々な制約から口には出せないものを作品に込めていたように思えてなりません。

既に石川先生は亡くなられており、恐らくダイナミックプロをはじめとする関係者は言いたいことはあっても言うことはできないのでしょう。
(実は未監修の派生作品については誉めている箇所がキャラデザインや動き、アイデアなどに限られていたり、テーマ性や人物についてなどをまともに話している資料がろくに見つかりません。奥歯にものが挟まったかのような話が多く不自然だと感じています)

ですから、関係者でもなく作品自体や残された言葉から推し量ることしかできない私にはこうしてネットの片隅で訴えることしかできません。

石川先生ご本人がなにもおっしゃられていない以上、派生作品自体が悪いという話ではありません。
そこでどのような契約や約束が結ばれ、なにが起きてこうなってしまったのかは闇の中である以上、私に明確に問題点とできるのは一消費者として詐欺ではないかと感じた「新ゲッターロボ」の売り方などくらいです。

お願いがあります。
現状の界隈は「新ゲッターロボこそ漫画版に一番近い」などという真っ赤な嘘を流布し、「石川作品はエログロバイオレンスとアナーキズム、登場人物はモラルに欠けた異常者」などといった、きちんと読んでいればそんなはずはない主張で論じられています。

石川先生の作品を、そこで一貫して描かれていたものを尊重し、あれらは全くの別物であると、理解して論じてはいただけないでしょうか。

改変自体は悪ではないと思います。
しかし、相手から許可を得ず、その原作や作者の意思を読み取らず、尊重せず、自分に都合が良いようにだけ改変することは少なくとも私には悪行です。

私は石川先生の描かれたあれらの作品のような、言えない怒りが込められたような悲しいものは、もう生まれなければいい世界になってほしいと思います。


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