見出し画像

夜明け前に見る夢は鳥たちの歌声を聞く 【第2章】

 「サラ!」と呼ぶ声に、彼女は振り向いた。背の高い、ごつごつした体格に似合わずやわらかい声、まぶしそうな笑顔、右手にクシャっと丸めた帽子を握っている。私はこの男を知っている、とサラは思う。遠い記憶の中で、最初に出会った男性・父と、最初に恋した男性・従兄が重なって見える。私の後をどこまでもついてくる優しい人間。

「neko!」

とサラは呼び返す。

「今日は何の授業に出たの?」

サラが尋ねると、nekoは顔をしかめて、マクロ経済学Aがどんなに面白くなかったかを訥々と話し始める。

「だからねサラ、僕はこんなことは時間の無駄でしかないと思うんだ。」

とnekoは真剣な顔をして締めくくった。

サラは笑って、

「そうなの?」

と答える。

季節は春。東山を新緑の緑が染め、まだ少し冷たい風が二人の側を吹き抜けた。サラとnekoは大学2年生の春を迎えていた。

 サラは文学部で英米文学を専攻する予定、nekoは経済学部の学生である。二人は一年前の春に、新入生向けのゼミで顔を合わせて以来の友達だ。広いキャンパスの中で、顔を合わせるのはいつも偶然の導きだった。サラは携帯電話を持っていない。nekoは持っているが、サラの下宿の電話番号を聞いたことはない。それでも時々会えるのだとお互いに知っていたし、その偶然をサラは少し楽しみにしていた。

 nekoは不思議な人物だった。大学に入ってから出会ったどんな人も口にしなかったことを、平然と言ってのける。入学したての頃、初めて食堂で一緒にご飯を食べながら、

「みんなは大学に入ったというだけでずいぶん浮かれているみたいだけど、僕はこのままではいけないと思う。」とボソッとつぶやいた。

サラは思わず、口の中にあったジャガイモの煮っころがしを飲み込んで、

「ふうん。」と何でもないように答えたけれど、心の中ではびっくりしていた。この人はなんだか、ほかの人とは違うみたい。

またある時は、英語の文献を輪読するゼミで、

「僕は英語が得意ではないから、時間がかかると思う。」と言っておきながら、次の週誰よりも正確な翻訳をしてきて、サラの目を丸くさせた。

サラはnekoのことを少し尊敬している。nekoはどう思っているのかな。

 サラは毎朝7時ごろ目を覚まし、朝食を簡単に済ませると川べりを散歩する。散歩しながら遠回りして大学へ通うのがサラの日課だった。川べりにはたくさんの鳥たちがいて、それをサラは双眼鏡で覗く。双眼鏡の丸い円の中で歌う鳥たちは、朝日を浴びて、まるでそこだけ世界から切り取られたように、くっきりと輝いてみえた。

 週に15コマほどの授業に出ながら、サラの毎日は淡々と過ぎていく。いや、タンタンではないかもしれない。今年から始まったフランス語Ⅱの授業は、第三帝政期のフランス社会史のテキストを読んでいて、毎回きっちり予習しないとついていけない。そのためにサラは週末の1日を当てている。増えてきたゼミの授業も、自分の担当が近づくとのんびりしてはいられない。サラは忙しいのかもしれない。そうして、ひとりでいるのが好きだった。

 ときどきnekoのように偶然出くわす何人かの知り合いと、食堂でお昼を共にすることはあったが、連絡先を知っている相手はいなかった。でもそのことを特にさびしいと感じたこともない。むしろ、高校までの団子のようにくっついた友達関係から解放されて、サラはホっとしていた。これくらいの風通しのいい関係がサラには心地いいのだった。そうして、物事がすっかり変わってしまうのは、いつもほんの些細なことがきっかけである。