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夜明け前に見る夢は鳥たちの歌声を聞く 【第4章】

 月曜日、サラはいつも通り2限のゼミに出かけた。教室に入ると、まだ人は集まっておらず、前の方の席にタカ子さんが腰かけている。タカ子さんは1年上の学年で、とてもおしゃべり好きだ。サラは、今日はあまり人と話したい気分ではなかったが、案の定つかまってしまう。

 タカ子さんの話が始まると、サラはいつも聞き役に徹した。その話は多岐にわたったが、たいていは誰々がどうしたこうしたという話だ。サラは噂話が好きではない。あまり興味がないし、自分もどこかでこんな風に話されているかと思うと、居心地が悪くなるのだ。
「それでね、サラ。マミ子はハヤシ君と付き合ってるらしいのよ。」
とタカ子さんが嬉々として話す。
「そうなの。」
とサラは言おうとして、自分の顔が強ばっていることに気が付いた。あれ?おかしい。いつもなら、当たり障りのない相槌を打てるのに、気が付いたらタカ子さんの白い歯が開いたり閉じたりするのを見つめながら、湧き上がる嫌悪感を抑えられなくなっていた。
「私、ちょっとトイレ。」
と言い置いて、サラは教室を飛び出した。

 トイレの鏡に映った自分の顔を見ながら、サラはぐるぐると落ち着かない思考を何とか落ち着けようと努めた。昨日、あの青い本を遅くまで読んでいたから、きっと寝不足なんだわと自分に言い聞かせるのが精いっぱいだった。授業が始まる前に教室に滑り込んだが、ディスカッションの言葉は頭の上を通り過ぎていくだけだった。

 昼食へ向かう人の流れに、飲み込まれるように歩き、気が付くとテーブルに座ってお盆にのったカレーうどんをぼんやり眺めていた。食欲はまったくない。どうしたんだろう…とサラはそこでようやく不安になり始めた。遅くまで本は読んでいたけど、1時には電気を消して眠ったはずだった。朝は軽くトーストをかじっただけだし、この時間になってもお腹が空かないなんて。そしてさっきのタカ子さんに対する自分の反応が、次第に気味悪く感じられた。

「サラ?ここ空いてる?」
ハッとして顔を上げると、目の前にnekoが立っている。
「neko。」
とサラは口にして、急にお腹が空きだしたように感じた。
「どうしたの。ずいぶん顔色が悪いみたいだけど。」
とnekoは心配そうにサラの顔を覗き込んだ。
「大丈夫、ちょっと寝不足でね。」
とサラは答えた。
「ふうん。」
とnekoは納得できない顔をして、サラの目の前に腰かけた。nekoのお盆には冷やし中華がのっている。
「もう冷やし中華始まったんだね。」
とサラがようやく口にすると、
「今日は暑いもん。30度近くあるんだよ。まったく4月なのにどうかしてる。」
とnekoがぶつぶつ言い始めた。そう言われてサラは、自分が熱々のカレーうどんを頼んでいたことをまた不思議に思う。なにせ寒くてたまらなかったのだ。
 
 nekoはそれから、午後にある経済英語の授業が、気が重いという話と、先週から始まった映画が面白そうだという話をしながら冷やし中華をすすり始めた。サラは、うなずきながら冷めてしまったカレーうどんを口に運んだ。うどんはサラの胃に収まったようだった。

 その夜、サラは布団の中でまたあの青い本を開いていた。なんとなく気味が悪いから、もう読むのは止めようと思っていたのに、部屋に帰るとその本の続きが読みたくて、読みたくてたまらなくなっていた。そうしてその日も夜中までその本を読み、電気を消すのも忘れて眠りに落ちていた。

 
 サラの生活は、次第にその本を読むことに費やされるようになっていく。大学へ行くときもリュックに入れて持っていき、暇を見つけては貪り読んだ。本の中の世界はサラを惹きつけ、離さなかった。なんて面白い本なのだろうとサラは思う。そうして1週間、2週間が経つうちに、サラは昼ご飯を食べなくなり、朝洋服を選ぶのを億劫に感じるようになっていた。そんなことに時間を費やすのが、惜しいように思えてくるのだ。ゼミでの人付き合いもどんどんなおざりになり、あんなに楽しかったnekoとの会話も、今では上の空だった。

「サラ、最近なにかあった?」
ある日、nekoは思い切って尋ねてみる。
「何かって?」
とサラは聞き返しながら、nekoが何をそんなに不思議がっているのか理解できない。私はいつも通りだし、何も変わらないのにとサラは思う。でもその頃には、サラは身だしなみにほとんど注意を払わなくなり、目はいつもギョロギョロしていた。授業にもろくに出ていない。
「しばらくのんびりしてみたらいいんじゃないかな。その、疲れているみたいだから…」
とnekoは口ごもった。
サラはなんだかイライラしてきて、
「nekoのように私は暇じゃないの!」
と言ってから、口を押さえて黙り込んだ。
「なんともなければいいんだけどさ。」
とnekoは言って、その話題はそれきりになった。