見出し画像

夜明け前に見る夢は鳥たちの歌声を聞く 【第1章】

 幼いころの記憶。

 サラは母親に連れられて、近所の動物たちを訪ね歩いた。牛を飼っているおばあさんの家、市場の犬、牧場で飼われているポニーたち、動物園のキリン…。動物を前にすると、サラの心は満ち足りた気持ちになった。手を伸ばして触れ、話ができると信じていた。家に帰ると、真っ白な画用紙にクレヨンで縦横無尽に線を描く。それがサラの見た者たちの姿だった。母親は理解者で、それを刺繍に仕立ててくれた。大人たちは、自分より数倍大きな動物に、物怖じもせず近づいていく子供を、驚きをもって見つめていた。あるいは微笑ましかったのかもしれない。そのようにしてサラは、動物と心を通わせる幸せな少女時代を送った。

 サラの生活には音楽があふれていた。父親は音楽を奏でることを生業とし、母親もまた音楽を愛していた。幼いサラが、ピアノの音を言い当てるようになると、「この子には音楽の神様から与えられた才能がある」と父親は喜んだ。母親もまたそう思ったが、その気持ちを言葉には出さなかった。代わりに、飛び切り陽気な曲を弾いて娘を喜ばせた。

 夜になると、サラは森の声に耳を澄ませる。フクロウがほうほぅと鳴き、地ネズミが落ち葉の間を駆け抜ける。イチョウの葉は夜の間にその葉を青から黄色に染め、もみの木は地面の下で静かに根を伸ばす。耳を澄ますと、そんな音さえも聞こえてくるような気がした。

「ねえ、なんて言ってるの?」

とサラは尋ねる。

母親は、本を読んでいた手を止めてしばらく考える。

「サラを誘っているんじゃない?一緒に遊ぼうって。」

それを聞くと、サラはちょっと怖いような、でもその世界を覗いてみたいような好奇心の入り混じった気持ちで、眠りに落ちるのだった。そうして、夢の中でフォーンと踊り、野ウサギとお茶を楽しむ不思議なひと時を過ごすのだ。

 幼いサラに、両親はさまざまな物語を読んで聞かせた。ヘイゼルという名の野ウサギが仲間の危機を救い、背中にプロペラのついたカールソンは屋根の上に住んでいて、哀れな兄と弟は黄泉の国で冒険をする。安寿と厨子王は母親と生き別れになり、蛇に姿を変えた女はどこまでも愛した男を追いかける。サラはそんな物語を飽きることなく繰り返し聞き、その少し悲哀を帯びた結末に心震わせるのだった。

 物語は彼女の生きる支えとなり、糧となることを母親は知っていたのかもしれない。そうして実際にそうだった。サラは物語の中で生き、心を育み大きくなった。ある時までは…。


 10年が経ち、サラはティーンエージャーになった。日々は慌ただしく過ぎていき、いつのまにか本を開く時間が少なくなっていた。自分の犬がやってきて、サラの相棒になる。その頃サラは不思議な病に取りつかれていた。

 始まりをたどるのはそう簡単ではない。その病がいつ始まったのか、両親にもサラ自身にもわからなかった。気が付くとそれはそこにあり、いつもじっとりと湿った眼でサラを見つめている。その視線を感じると、サラは食事がのどを通らなくなるか、どれだけ食べても満足を感じられなくなるかのどちらかだった。

 サラは毎朝、平静を装って学校へ行き、クラブ活動をこなし帰ってくる。しかしその心はいつも焦燥感に取りつかれていた。あの眼が私を見つめる。部屋の隅の暗がりから、ドアの陰から、廊下の突き当りから私をいつも伺っていると、サラは感じる。するともう、友達との会話も、聞いていた音楽も耳から遠ざかり、真空の中に投げ出されるような不思議な感覚を味わっていた。母親が作った料理は、恐ろしい味がするように思われ、ジャンクフードを食べても、食べても心は満たされない。サラは途惑い、体が震えた。

 そんな時、サラの意識を突き破って来るのは相棒の犬の声だった。

「ねえサラ、今日は山の上へ行ってみようよ。」

と犬が話しかけてくる。

その声を聞くと、サラはハッと我に返り、自分の足がまだちゃんと地面を踏みしめていることに気付くのだった。サラは犬と連れ立って山道を登り、早春の冷たい風に吹かれながらはるかに船の姿を眺める。夕日はまさに沈もうとして、その光がサラの頬を染めた。私はここにいる、とサラは思った。犬が目の前で満足そうにくつろいでいる。サラはその光景を心にとどめたいと願うのだった。

 サラがその眼の存在を感じなくなったのは、それから6年ほどしてのこと。ある時ふと、その眼がもう側にはいないことにサラは気づいた。目の前には広大な草原が広がり、どこまでも踏み分け道が伸びていた。サラは自由になったのだ。それは素晴らしい感覚だった。あとはこの道をどこまでも辿っていけばいい。あの眼が再び私を見つめることはもうないだろうと、サラは感じた。足元で、犬が嬉しそうに尻尾を振っている。後ろでは、両親が目を細めてサラを見守っていた。そうしてサラは、少しずつその心を取り戻していくのだ。

 サラを救ったのは、学問への好奇心だったかもしれない。あの眼の存在を忘れるほどに、サラは学問の世界に魅せられていた。その深さ、奥行き、そして高さはサラを魅了した。どれだけ登っても頂上は見えないような気がする。その山を、サラは犬と母親と一緒に歩いている気がした。母親は常にサラの背中を押し、次にたどるべき小道を照らしてくれた。犬はサラの足元で、じゃれたり噛みついたりしながら彼女を愉快な気持ちにさせた。学問の世界は、サラを包む新たな光だ。幼いころのワクワクする気持ちをサラは取り戻していた。それはサラにとって、幸せな出来事だった。