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夜明け前に見る夢は鳥たちの歌声を聞く 【第7章】

 大きな黒い船が、二人の方へゆっくりと近づいてきた。不思議な船だ。木でできているのに、どうして浮かんでいるんだろう。それは、四角い箱のような形をしていて、昔絵本の中で見たノアの箱舟のようだとサラは思った。モーターが回るかすかな唸り声のような音がする。船は静かに崖の手前上空で止まった。空には雲が垂れ込め、鉛のようにどんよりとして、昼間なのか夜なのかわからなくなっていた。風がいつのまにか止んでいる。その船には、空から乗るようだった。

 甲板の上には、動物たちがひしめき合っている。いつのまにか、サラとmakoは上空からその船を見下ろしていた。そして船から降りる動物たちと、船に乗っていく動物たちの流れを鳥のように見つめていた。見ているうちに、動物なのか人間なのかサラにはわからなくなった。
「私たちはこの船に乗るの。」
とmakoが言った。

 船の中は、けものたちの体臭と糞の匂いが混ざり合った強烈な匂いに満ちている。床には藁が敷かれているようだった。干し草の匂いも混ざっているのかもしれない。その匂いは、サラの記憶の底をつついた。サラは幼いころ、母親に連れられて行った、牛を飼っているおばあさんの家を思い出していた。(どうして母は、私をそんなところへ連れて行こうと思い立ったのだろう。)目の前に迫る、大きな牛の顔と、温かく湿った息。ピンク色の舌が、サラの顔をベロっと舐める。サラは嬉しさのあまり身震いをした。
「サラ、あなたは動物がとても好きだった。思い出した?」
とmakoが話す。
「ええ。とても好きだったわ。どうして忘れていたんだろう。」
サラは不思議に思った。動物が好きで、好きでたまらなかった。毎日の散歩は、近所に住む動物たちの家を訪ね歩くことだった。動物といると、サラは何とも言えない心地よさを感じたものだ。人間と話すよりも、動物と話す方が楽しかった。彼らは真っ黒いつぶらな瞳でサラのことを見つめた。サラもくりくりした目で、その目を覗き込んだ。そこには、子供が感じ取ることのできる、永遠の時間が流れているような気がした。手に取って触ることのできる温かな時間だった。

「あなたの好きなものは、他にもあったわ。あなたは昔、ピアノを弾いていた。」
とmakoが言う。
サラは秋の日差しが差し込む部屋で、ピアノの練習をしていたことを思い出す。あれは確か、バッハの曲だった。黒いピアノは、親密そうにサラの側にあった。まるで、大人しい大きな黒猫のように。サラは白と黒の鍵盤の上に、夢中で指を走らせた。右手が奏でる旋律を受けて、左手が答えを返す。左手が旋律を奏でる曲を弾けるようになったことが嬉しかった。二本の手はまるで追いかけっこをするように、メロディーを奏でた。難しい算数の問題が解けたような心地がした。あんなに好きだったのに、どうしてやめてしまったんだろう。

「旅に出る男というのは誰?」
とサラは尋ねる。
「誰だろう。それは、もう出会っている人かもしれないし、これから出会う人なのかもしれないな。」
とmakoが答える。サラはふとnekoのことを思い浮かべた。あの人はいつか、遠い所へ行ってしまうのだろうか。
「私たちは、行って帰って来るのね。」
とサラは尋ねる。
「そうよ。私たちは必ず帰るの。そのことを忘れないで。」
とmakoが言った。

 気が付くと、二人は芝生の上に立ち、目の前に灰色の四角い建物がそびえている。入口に掲げられた看板は、色褪せてしまってよく見えない。
「これが研究所よ。」
とmakoが言った。
「私たちは、中で何が起きているか見極めないと。」
makoは促すようにサラの背中にそっと手を当てた。
 薄暗い長い廊下を進んでいくと、急に何もない広い静かな空間に出た。何もないのに、そこでかつて繰り広げられていた禍々しい出来事が、まるで映画のようにサラの頭に流れ込む。ここはかつて、遺伝子を研究する場所だった…。科学者たちは、遺伝子を操作して、新たな生命を生み出そうとしていた。しかしある時、そのことの恐ろしさに気付いた一人の研究員が、施設とデータをすべて破壊してしまった。残っているのは、このだだっ広い部屋だけなのだ…。

 フラッシュバックから目を覚ましたサラは、いつのまにか部屋の真ん中にこちらに背中を向けて女が一人座っていることに気が付く。赤い着物に、大柄の白い牡丹の花が染め抜かれていた。正座ができない…とその女がつぶやいた気がした。とたんに建物が崩れ始め、サラとmakoは急いで出口へ走り出す。

「あのバスに乗って!」
とmakoが叫んだ。見ると、一台のバスが二人の前を通り過ぎようとしている。サラは急いで右手を挙げてバスを止めようとした。すると、空気を抜くような音がしてバスの扉が開き、中から金髪の男性が降りてきて、サラの方を見てニヤリと笑った。
「あの男の言うことを聞いてはダメ!」
とmakoが言うが、その男の口にする呪文のような言葉が、サラの体を動けなくする。耳をふさいでも、ふさいでも声は頭の中に響いた。辺りは急に薄暗くなり、気が付くとサラはmakoの姿を見失っている。
「mako!」
とサラは叫んだ。

 暗がりにあの眼が浮かび上がった。吸い込まれるような深い青色をしているようにサラには思えた。炎が揺れるように、ちらちらと瞬いている。
「おまえはひとりだ」
と眼の声が響いた。それは、実際に空気を震わせているのではなく、サラの心の中に直に響く声だ。
「学問の世界はおまえを救ってはくれない。不安が集まってくる音が聞こえるだろう」
いつのまにか、眼は暁の太陽のようにギラギラと輝いていた。サラは体がしびれて立ち上がれない。どこかで、細い竹の棒が机をたたくピシッという音がする。幼いサラは驚いて飛び上がった。目にうっすらと涙がにじむ。
「さあ、この問題を5分で解きなさい!何度も教えているはずよ。」
と先生の不機嫌な声が響く。教室の空気が凍り付いていた。兵士たちの足音さえ聞こえる気がする。
「ミンナオナジデナケレバナラナイ」
とコーラスが唱和した。サラは、本当はあの時とても怖かったことを思い出した。そしてひとりぼっちだった。
 
 その時、makoの声が聞こえた。
「サラ、眼を開けて。あの眼を怖がってはダメ。あの眼はあなた自身の中にあるものだから。恐ろしい記憶は誰しも持っているもの。でもそのことはもう忘れていいのよ。人は、暗闇で孤独を抱えながら、それでも夜明けを言祝ぐ鳥のようなもの。あなたはまだトンネルの中にいるから、そのことがわからないだけ。」
いつのまにか、その声は母親の声に変っていた。
「人を信じて。あなたにはすばらしい可能性がある…。」
声はとぎれとぎれになっていく。気が付くと、あの眼の光が弱くなっていた。
「お母さん!mako!」
サラは叫んだ。
「私はもう行かなければ。子供たちが待っている…。でもいつかまた会えるわね。」
makoの声がこだました。サラは弱くなっていく眼の光を正面から見つめた。そこには、もう恐ろしさは感じられなかった。ただ、その眼のことを慈しむような気持ちがサラの中に生まれていた。

 自分の布団の中で、サラはうっすらと目を開けた。まだ夜明け前なのか薄暗い。朝の鳥たちが囀り始めるまでには、あと少し時間がかかるだろう。サラはひどくお腹が空いていることに気が付く。温かい涙が頬を伝った。ぼんやりとした頭の中で、急にnekoのことを思い出す。私はnekoに言わなければならないことがあるはずだ、とサラは思った。

 布団から這い出て、受話器を取ると、サラはでたらめに番号を押す。呼び出し音が鳴り始め、8回目か9回目でnekoの眠そうな声が「もしもし…」と言った。
「もしもし…」
「neko、私あなたに話したいことがあるの。」
とサラが言う。
「…サラ?だって今は、むむむ、まだ4時半だよ…」
とnekoが寝ぼけた声で言う。
「それにどうして僕の番号を知っているの?」
「neko、不思議なことが起こったの。電話では、とても話しきれないような不思議なこと。そしてね、私はもしかしたらあなたのことが好きなのかもしれない。」
電話の向こうで、nekoが必死に頭を再起動している音が聞こえる。
「うん。」
とnekoが言った。その声は、少し照れたような嬉しそうな、いつものnekoの声だった。