伝統って

こんばんは。たいです。
回すとか言いつつ、最近奴らとあまりゆっくり喋れてないこともあって共有アカウント化出来てません。
結局個人で回すかもですがご容赦ください。



てことで今日のお話。
先日、部活の方で対校戦がありまして、けどコロナでしばらく開催できてなかったものですから、運営という面からも、チーム全体の心持ちという面からも、各方面から結構色々言われて大萎えしております。
つらい。

で、考えるわけですよ。
伝統ってそんなに重要かえって。

最近セカオワの「habit」って曲が流行してますよね。
いわゆるbad habitを壊してもっと自由に生きろよ、みたいな歌。それ自体にはすごい共感できるんですけど、随所に「ん?」って思うとこが何個もあって、今回の伝統の話とすごいリンクするんで1点だけ取り上げさせてください。

「habit」の冒頭では、区別分類することの違和感を歌っています。「2種類の人間」に分けてるけど、人間とは「もっと曖昧で繊細」なものだから分けれるわけないだろ!みたいな。

けど、振り返れば「わかるは分ける」って言葉も割と耳にする言葉じゃないですか?学術用語では、概念装置って言葉もあるくらい、概念を言葉で当てはめると世界が広がることがあるわけですよ。人間って比較して、相対化して初めて見えてくる、あるいはそうしないと見えてこないものがすごく多い生き物でもある訳ですから。多文化を知る上でも、ある言葉ない言葉でその文化圏の人のものの見方が垣間見えることも多々あるわけです。

それを考えると、この歌詞はむしろ「区別する」ことの本来持つアナログ的要素を見ずに、現代でデジタル化した「区別する」という行為、すなわち0か1か、そうかそうでないかでしか区別しない価値観を否定するものであるんかなって思います。つまり、否定してるのは「区別分類」というより「デジタル的な二者択一の考え方」であって、そのhabitは古いものと言うよりむしろ区別の重要な視点(アナログ的、数直線的見方)が削ぎ落とされた、比較的新しい「区別」のhabitなんではないかなと思ったり。


教育だってそうですよね。「児童主体」って言葉めちゃ流行ってますけど、それの裏にあるのは教師主体の授業であって。その教師主体否定、もちろん単なる押しつけ教育だったり単に権威的で威圧的な教員が跋扈することはよくないですけど、教員の存在を、教員の価値観を学校から追い出すって話になるとまた違う気がするんです。だってそれはつまり学校いらんくないですか。
国のため、社会のための教育をしたくない、そのためには教員の価値観を押し付けるべきでない、ここまではわかるんです。けど、じゃあ純度100%の子ども主体の教育を求め始めると、それはもう野原に子ども解き放って、求められた道具支給するロボットいたらそれが理想の教育ですか?
さすがにそれは違くて、やっぱり教育には目的があって、それは個人のものであると同時に、社会で生きる個人が幸福になるには個人の集合体である社会も幸せにならなくちゃいけないから、結局ある程度社会のための教育にならざるを得ないというか。
つまりは個人か集団かじゃなくて、その軸の間の座標の検討の話だと思うんですよね。bad habitを捨てようとするだけでは問題は解決されない。


要は今の日本ってこういうプロセスの中にいるんじゃないかなって話です。
①長い時間をかけて日本人が様々な仕組み、慣習を創る。
②当たり前になり、徐々に意味とか必然性が削ぎ落とされる。
③伝統が形骸化する。
④デジタル的思考で伝統を批判、対置される概念の隆盛を狙う←イマココ

だとすると次に起こるべきはなにか。伝統の廃止ですか?僕は違うと思います。
次に起こるべきこと、それは歴史の見直しとアナログ的評価だと思うんです。
廃止すべきと感じた仕組みができる以前を知る。その古い仕組みはそれ自体の分析、あるいは創設された後との比較により、意味や必然性を見出される。
そしたら、その意味や必然性が今に至っても未だに必要なのか、それとももうそれが必要とされる段階ではなくなっているのかということが見えてくると思うんですよね。

伝統って今や響きだけで旧時代的で非合理的なものと思われてるんじゃないかって生活の節々で感じてしまいますが、伝統と言われる所以を変なバイアスなしで見つめられるような人間でありたいなと思います。変なバイアスってのは、尊、ゴホン、偉大な大先輩方の熱烈な視線だったりする訳ですが…😓

たい

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