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金賢玉さんを囲む会《沖縄の日本軍「慰安婦」被害者・裴奉奇さんと出逢って》

 2024年4月28日と29日、大阪と神戸で《金賢玉さんを囲む会》が催されました。大阪では70人、神戸では40人ほどの参加者を得て、多くの方の心に感動を呼び起こしました。
 金賢玉(キム・ヒョノク)さんは沖縄の日本返還を機に夫とともに1972年に沖縄に移住し、朝鮮総連沖縄県本部を立ち上げ、沖縄に暮らす在日朝鮮人の権利擁護に取り組んできました。1975年に、沖縄に取り残された日本軍「慰安婦」被害者の裴奉奇(ペ・ポンギ)さんと出逢い、1991年に亡くなられるまで生活面も支え寄り添い続けました。

 金賢玉さんのお話の前に、主催者から裴奉奇さんの生涯についての紹介がありました。
 裴奉奇さんは金学順さんが名乗り出られる前から存在を知られていた日本軍「慰安婦」被害者の1人です。朝鮮半島から沖縄・渡嘉敷島の慰安所に連れてこられ、戦後も沖縄に取り残されました。その生涯については1987年に出版された川田文子さん著『赤瓦の家』でよく知られています。ところが裴奉奇さんが亡くなられたのは1991年で、『赤瓦の家』が出版されてからも4年の歳月があります。その間にも日本の戦争責任を問う機運は高まり、1991年8月14日には金学順さんが名乗り出られるわけですけれど、裴奉奇さんの晩年はそのような日本社会の転換期でもありました。
 金賢玉さんは『赤瓦の家』に描かれていない裴奉奇さんの晩年を知っているはずです。
 囲む会で金賢玉さんから私たちが知らない裴奉奇さんの最晩年の変化を語っていただくために、参加者には『赤瓦の家』を読んだ気持ちになって金賢玉さんのお話を受け止められるように、主催者から事前プレゼンを行ったというわけです。その内容については、4月25日の神戸水曜デモのアピールと大部分かぶりますので、裴奉奇さんの基礎知識がない方はまずは下記サイトをお読み取りください。
https://note.com/redress814/n/n6cdadf639e59
 それでは金賢玉さんのお話を紹介します。

お話しする金賢玉さん

 金賢玉さんは冒頭、朝鮮学校における民族教育の重要さについて、力強く訴えられました。
「沖縄に行って50年が過ぎたが、神戸で生まれ育ち、朝鮮学校で民族性を養って活動家として沖縄に渡った。4.24阪神教育闘争を経ても朝鮮学校が守られ、私自身も朝鮮人として生きようとしう精神を養った。裴奉奇さんと出逢えたのも民族教育のおかげ。」
 金賢玉さんが全身をかけ、民族活動に取り組んでこられてきたことを、言葉の端々から感じました。

 裴奉奇さんのことが新聞報道に出て、たくさんの人が裴奉奇さんに逢いたがったそうです。いろんな人が裴奉奇の家を訪ね、けれど裴さんは精神状態が悪くて追い払うことが多かったそうです。そして多くの人が裴さんを訪ねなくなったというのに、金賢玉さん夫婦は訪ね続けました。
 裴さんはある日、金賢玉さんに訊ねたそうです。
「片っ端から人が来なくなるのに、なんであんたがたは来るのか?」
金さんはこう答えました。
「私たちは裴さんが『慰安婦』だから付き合ったわけじゃない。朝鮮の歴史を学んだものとして、同じ同胞として会いに来るのだ」
 そうやって次第に裴奉奇さんの信頼を得るようになっていきました。
 
 裴奉奇さんは出逢った当初、自分の人生をこのように恨んでいました。
「私が貧乏してこんなに苦労したのは、私の運勢が悪いからだ」と。
 日本の植民地支配のためだということが、裴奉奇さんにはわからないのです。だからこうも言っていました。
「友軍が負けたのが悔しいさ」
 金賢玉さんは、そういうふうに自分の運勢を語る裴奉奇さんをみて、とても胸が痛んだそうです。
 しかし裴奉奇さんは、金賢玉さんらとつきあい、繰り返し話して、少しずつ歴史を知るなかで、「自分のせいではない。運勢でもない。日本が悪いのだ」と気づき始めました。
 在日朝鮮人が差別されている現実、沖縄に米軍基地があり韓国にもあるという現実、朝鮮半島の南北が分断されているという現実、そういう様々な矛盾の仕組みを、朝鮮総連の活動にも参加し、日本人も含む多くの人と付き合う中で、少しずつ学んでいったのです。

 川田文子さんが『赤瓦の家』を執筆中、にっちもさっちもいかなくなって、金賢玉さんに相談に行かれたことがありました。裴さんからすれば話したくないことを話さなければならないのだから、川田さんの姿勢がいくら真摯であろうとも、裴奉奇さんの拒否感は当然です。
 金賢玉さんは裴奉奇さんにこのように話して説得しました。
「川田さんも家で子守していればいいのに、自分のお金で子どもを背負って沖縄くんだりまで来て、なぜ裴奉奇さんから話を聴こうとするのか。裴さんみたいな人を二度とつくらないためにだよ。裴さんを作ったのは日本の植民地支配。朝鮮の女性だけじゃなく、日本の女性も、戦地の女性も被害に遭った。女だけじゃなく、男も強制連行された。日本政府がやったことを悪いと認めさせて、女性がどういうふうな被害に遭い無視されてきたのかちゃんと書き残すために、川田さんは裴さんのところに来るんだよ」
 そういうことを繰り返し説得する中で、裴奉奇さんも納得するようになりました。
 川田さんが『赤瓦の家』を書いているときは、裴奉奇さんの気持ちも変わりつつあるときでした。もともと気が短いのに、それを抑えて川田さんの質問に答えていくようになりました。

 朝鮮総連の活動の中では、革新の市長や議員など、政治家にあうこともあります。裴奉奇さんはそういうときに端っこでみていることもありました。ある日、読谷村長が会合でネッカチーフ姿の裴奉奇さんの姿をみて誰なのか訊ね、裴奉奇さんが元「慰安婦」だったことを知ると、駆け寄って手を掴み、こういったのだそうです。
「長いこと苦労されました。本当なら日本政府が賠償せんといかんのに、それもできずに生活保護しか出せなくて、本当に申し訳ない」
 裴奉奇さんからすれば想定できない事態です。こういった出来事の一つひとつが、裴奉奇さんの被害回復につながっていったのです。

 1988年にソウルオリンピックがありました。ある記者が裴奉奇さんに「お金は出すからソウルオリンピックに行かないか。これを機会に一緒に故郷に行ってみないか」と促しました。すると裴奉奇さんは一瞬にして泣き出してしまいました。なかなか泣き止まず、記者たちもおろおろするばかり。こんな姿を見るのは、金賢玉さんにとっても後にも先にもこれきりでした。
 そして少し落ち着いてきた裴奉奇さんはこのように言いました。
「そりゃ故郷に行きたいさ。行きたいけれど、行けないさ。沖縄みてみなさい。基地あるでしょ。韓国に行っても基地あるでしょ。暮らせないさ」
 朝鮮総連が反戦集会に出かけたり、沖縄の反基地闘争とも関わっていることを知り、裴奉奇さんの価値観も変わっていきました。米軍基地の存在や南北分断の意味などを、裴奉奇さんは自分のことのように理解していったのです。
 そして「友軍が負けて悔しいさ」と言っていたのも、「自分たち女も苦しかったけれど、一番苦しかったのは強制連行させられた男(朝鮮人軍夫)たちよ。あんたたちそれ忘れちゃだめよ」と周囲に諭すまでに変わっていきました。

自分の故郷を指し示す裴奉奇さん

 ある日、総連の事務所でテレビを見ていた時、昭和天皇の死亡を伝えるニュースが流れました。そのとき裴奉奇さんははっきりした口調でこう言ったのだそうです。
「謝りもせんと逝きよって!」
裴奉奇さんからこのような言葉が出ると思っていなかった金賢玉さんは「どうしてほしかったの」と訊ねました。するとこのように答えました。
「賠償せんとダメさ」
 自分のことを「運勢さぁ、運勢さぁ」と言っていた人から、このような言葉が発せられるまでに、裴奉奇さんは変わっていったのでした。

 そうして裴奉奇さんの心も次第に落ち着いていきました。頭痛の発作が起きるとサロンパスを小さく切り刻んで額やこめかみにびっしりと貼り、誰にも会おうとしなかった裴奉奇さん。晩年はその症状も次第に治まっていきました。
 生活保護費が出た時には一緒に買い物に出かけ、時には一緒に外食しました。お金がないというのに、自らお金を出そうとすることはしょっちゅうでした。そうしてご飯を食べた時、裴さんから「チョソンウンシギ チョッター(朝鮮の食べ物がおいしいさー)」という言葉が聞けるようになりました。また違う場面では「コヒャンサランいいね~」という言葉も。そうやって次第に自分自身の民族に対して肯定的になり、心を取り戻していったのです。
 山谷哲夫さんが映画『沖縄のハルモニ』を撮り上映活動をしたときに、会場で集めたカンパを送ってこられたことがありました。もちろん金さんは裴さんにそのお金を渡そうとしますが、裴さんは受け取りません。埒が明かないので、そのお金で指輪を買いにいきました。店で指輪を買って、着けたまま家に帰りました。亡くなるまでその指輪を身に着けていたそうです。きっと大切な指輪だったのです。
 1991年10月に自宅で亡くなられたときは、とても暑い夏が続いていました。通報で鍵を開けて部屋の中に入ると、裴さんはたたんだ布団に両足を載せた状態で横になっていました。とても穏やかな顔をされていたそうです。

 私たちはこれまで『赤瓦の家』の裴奉奇さんしか知りませんでした。
 金賢玉さんのお話から、金賢玉さんら朝鮮総連の同胞と付き合う中で、民族を肯定し、歴史を知り、被害回復を成し遂げて行ったことを知りました。金学順さんが名乗り出られた後、世界中から多くの女性たちが名乗り出られ、日本政府を告発し、証言を繰り返し、裁判闘争を闘う中で、被害回復の道をたどっていったことを私たちは知っています。金学順さんが名乗り出られた直後に亡くなった裴奉奇さんも、このような被害回復の道を歩んでいたということは、私たちにとっては救いでもあります。
 被害者のほとんどがすでに亡くなられ、私たちは日本軍「慰安婦」問題から何を学び、それをどう日本社会に根付かせることができるかという課題に直面しています。
 いまの日本の現状にあってそれは困難な課題ですが、それを成し遂げなければ日本はまた再び戦争への道を進み、裴奉奇さんのような被害者をまた生み出すことになります。
 金賢玉さんのお話を聞いて、裴奉奇さんが川田文子さんに語った行為は、やっぱり「二度と私たちのような女性を生み出してはならない」という裴奉奇さんの思いそのものであっただろうと確信します。
 裴奉奇さんの遺志を私たちはしっかりと受け止め、日本社会を変えていきたいと思います。

金賢玉さんを囲む会
沖縄の日本軍「慰安婦」被害者・裴奉奇さんと出逢って

2024年4月28日14時 阿倍野市民学習センター「アジアから問われる日本の戦争」展にて
2024年4月29日10時 神戸市立婦人会館にて 主催:「慰安婦」問題を考える会・神戸 共催:アイ女性会議ひょうご

(裴奉奇さんの写真は金賢玉さんの提供)


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