フールズメイト3(過去作)
その日、純喫茶「フールズ・メイト」には、洋二の雪江の二人しか居なかった。
マスターは、どうやらまた競馬に出かけていたのだという。つまり、店番もかねた居座りという事である。
外は酷い雨だった。窓の無い店だというのに、ドアに当たる雨音が、レコードの音に紛れて聞こえた。
洋二は珈琲を飲んでいた。
その向かいで、雪江は本を読んでいる。
ふいに、唸る様な雨音が聞こえ、冷たい風が流れた。
振り返ると、店の扉が開いる。
開け放たれた扉の外で、緋色のドレスを着た女が一人、ぼんやりと立ち尽くしているのが見えた。
「───ここが、フールズ・メイトですか?」
雨音に混じって、掠れた女の声が聞こえた。
洋二は立ち上がった。怯えた様に本を閉じた雪江を一瞥した後、席から離れた。
店の扉に近づき、洋二は足を止めた。
酷い姿である。
そのドレスは、元は鮮やかな赤だったのだろう───しかし今、雨に濡れ、黒ずんだそのドレスは、まるでボロ布の如く見えた。
濡れた髪の奥に、女の眼があった。
伏せられたその瞳は虚ろ──まるで、燻んだ硝子玉だと、洋二は思った。
「───そうですが、何か?」
洋二が尋ねると、青褪めた厚い唇が動いた。
「────珈琲を」
その言葉が終わる前に、洋二は女の手を引いた。
見れば、女は素足である。扉を閉め、雨音が遠ざかっても、彼女の濡れた体から雨音のごく滴たる水の音が響いた
とにかく、服を着替えるように──と、洋二は女の背を押す。
自室に戻り、代わりの衣服を持って来る様雪絵に指示し、女を椅子に座らせた。
雪江が扉を飛び出す音を聞いた後、店の奥から持ってきたタオルで彼女の体を包む。女は振るえながら、そのタオルの端を必死に握っていた。
「さて、お嬢さん───」
洋二は優しく、包み込む様に語りかけた
「───君は、どんな組織に追われてるのかな?」
女は顔を上げた。
そこには、先ほどの憂いは欠片も無い。
「──そ、組織?」
無理も無かった。
何せ、彼女はこの男の誇大妄想を知らない。
しかし、洋二はそんな事もお構い無しに、勝手気まま、自身の妄想を押し付けた。
「そうだろう?だって、こんな雨の中、素足で走るドレス姿の女性は間違いなく誰かに追われているものさ───CIAかい?それとも、古の暗殺集団かい?」
突然、女は顔を伏せた。
洋二がその顔を覗き込もうとした時、くぐもった声が聞こえた。
───女は、笑っていた。
「やっぱり、この店には可笑しな人が居るのね」
笑みを隠す様に、女は顔を手で覆った。拍子に、掛けられていたタオルが床に滑り落ちた。
随分と、汚れた肌だった。
雨に濡れ、泥にまみれ──そこに、微かな血の色を、洋二は見た。
「……彼女は、怪我をしていたの……」
隣で、雪絵が蠢く気配がした。
肩に、何かが触れる。
ぼんやりと見上げると、そこに雪絵の白い手あった。
隣を見ると、雪絵も此方を見ていて、目が会う。
その眼差しに宿る、確かな憐れみ───それを、忍は虚ろに眺める他無かった。
「………あの人はね、自分で自分を傷つけたの……」
雪江の唇が、目の前で動いている。
しかし、解らない。
───これは、誰の声だ?
「此処からは、僕が話そう……」
また、別の声がした。
「彼女は──いや、あの時の彼女を、心の底から『彼女』と呼ぶべきかは分からないが──とにかく、彼女は───」
────自分の性器を、切り落としていたんだろう?
「そうだ──彼女は自分自身で、それを切除した直後だった……止血と、縫合は自分で行ったらしい」
忍の視線の先に、ふいに男の顔が写り込んだ。
──嗚呼、なんて酷い顔だろうか。
まるで形を成さない、黒と茶の斑模様──そこに、うねる白い列が現れ、声が響いた。
「しかし、彼女にしてみれば、それは正常な行いだった──」
───何が、正常なんだ。
忍は呻いた。
だって、そいつは──
「君は、両性具有者を知っているか?」
───両性、具有者?
「ああ、生まれながらにして、男性器官と女性器官を併せ持ってうまれた人間の事だ」
でも、それはキュベレーだろう?──と呻くと、目の前の斑模様が大きく揺れた。
「いいや、違うよ。確かに生まれる確率は少ないが………本当に、そういう人間は実在する。生まれながらにして、男であり、女である肉体を持つものがね」
───本当に、そんな人間が?
「そうだ──そして、彼女もまた、その両性具有者の一人だった」
そこで、その声が微かに震えたのを、忍は聞いた。
「彼女は悩み続けていた──矛盾する自身の存在……その不確かさに悶え、苦しみ──そうして、ついに彼女はある決断を下した」
───それで、切り落としたのか?
「そう、切り落とした───その後、まだ傷も癒えぬ体で、彼女はこの店に来た──何故だかわかるか?ここが変人達の店だと、噂に聞いたからだよ」
自身の肩を抱く少女の手が震えていた。
顔を傾けると、その少女もまた、白濁と歪む斑模様の怪物へと変貌していた。
「そこで僕は彼女と話した───男根切除の経緯と、それに至った理由を聞いた──そして、彼女は最後に、自分の一部を斬り落としたナイフを見せて、こう云った───」
───これは、キュベレーの密儀で使われていたもらしいの
「そのナイフが、本当に密儀で使われていたものか解らない───しかし、彼女は、あの恐ろしい結社を知っていた──彼女が男根切除を思い付いたのも、恐らく、キュベレー信仰を知ったのとほぼ同時期だろう」
眼前の斑模様は、どうやら嗤った様である。
忍は呻き、頭を抱えた。
キュベレー神──
男根切除の儀式──
それらはとても赤くて──黒くて────どろりと、馬鹿みたいに淀んでる。
「……そして、しばらくして彼女は熱烈なキュベレー信者となった。自身の境遇とあまりにも酷似していたからだろうね───その神話を彼女は信じ、崇めた」
───ガロス…か?
「ああ、彼女は現代のガロス。たった一人の秘密結社の会員さ───だが、やがて彼女は後悔した──自身の男根を切除してしまった事をね」
───矛盾しているじゃないか。
「ああ、矛盾している……けれど忍君。狂気というのは、まさにその矛盾の中にこそあるんじゃないかな?」
───矛盾の、中?…
「そう──彼女は生まれながらにして矛盾そのものだった。男であり、女であった」
──じゃぁ、彼女は始めから狂っていたのか?
「いいや?彼女が本当に狂ったのはその後──男根を切除し、性の一方を無くした時──」
───そこで、気がついたのか?
忍が尋ねると、斑模様は微笑んだ。
「いいや、気がついたんじゃない───彼女は、見たんだ」
──何を?
「相反する二つのものが合わさる時──男と女──理性と本能──その、ほんの小さな隙間をベットリと埋める、赤黒い影を──」
──彼女は、その眼で見てしまったのだと、斑模様は云った。
忍には、それが良く解った。
なにせ眼の前──この斑模様の中には、先ほどから、まるで胎児の様に、赤と黒の陰影が生き物の如く揺れているのである。
……また、あの言葉が脳裏に浮かんだ。
────奇人の様であって、それは、まるで奇人では無い様な───
あの時感じた、確かな違和感。
忍は、その正体を見た気がして、嬉しくなり、つい嗤った。
「……彼女はただ、普通の女になろうとした──しかし、密儀の真似事を終え、生まれて初めて、冷静に自身の抱える矛盾を見た」
そこで、彼女は狂気に出会ったのだと、斑模様の男は云う
───じゃぁ、彼女は狂人になったのか?
「そう呼んででも良いだろう」
と朗々と響く声の中へ、微かに混じった悲しい音色を忍は聞いた。
「さっき説明した、キュベレー女神誕生の話だが…そこで、キュベレーがアッティスの男根を切り落としたくだりを覚えているかい?」
嗚呼、覚えている──
虚ろに嗤う忍の顔に、斑模様が近づく。
「あれを、彼女は独特な発想で解釈した」
───それは、阿部定の如くか?
「まぁ近いものがあるが──少し違う」
斑模様は云う。
「確かに、アッティスの男根を切り落とし、アッティスの一つになろうとしたのだろうと彼女は考えた───しかし、その後が違う……」
違うって、何が──
「彼女は、キュベレーがアッティスと一つになろうとした理由を、こう解釈したのさ」
その後、斑模様が呟いた言葉に、忍の耳は震えた。
───キュベレーは、両性具有の姿に戻ろうとしていた───
「思い出したまえ、キュベレーは自ら望んで男根を切り落とした訳じゃない、無理やり、他の神々の手によって切り落とされたのだよ」
じゃぁ、彼女は、まさか……
途端に、忍の顔に笑みが消え、斑模様の中に佇む、赤黒い陰影が震えた。
「彼女は、心の中で後悔していたんだろうね──肉体の一部を自身で切り取った事を──しかし、そんな後悔から逃げる為にすがったはずの女神もまた、後悔していたと知った時、彼女はそこに、また新たな矛盾を見つけ──」
彼女は再び、狂気を覗いてしまった───と、斑模様は云った。
「彼女に、もはや選択の余地は無かった。不完全な女神をすがる、不完全な自分に気がついた時──その矛盾を埋めるものは、もはや狂気しかない」
──それで、俺を襲ったのか。
「ああ──彼女にとって、目に映る全ての男がアッティスに見えたろうね────────しかし、彼女はガロスではあっても、決して女神にはなれなかった」
───なれなかった?
「そう、彼女はキリトリ魔ですらない」
キリトリ魔じゃ……無い?
思考は、まだ渦を巻いている。
視界も未だ定まらない
しかし、確かに──忍は聞いた。
「キリトリ魔じゃないって……どういう事だ?」
眼前でうねる、焦げ茶色の斑模様。
それが──次第に形を成し始めるのがわった。
「彼女は、君の男根を切り落とさなかった」
まず、浅黒い輪郭が現れた。
そこに、鋭い眼差しが──太い眉が──なでつけられた頭髪が──
「そして、この間の男も──彼女は、まだキリトリ魔じゃないんだ」
ああ──洋二──
「ああ、そうだよ……まったく、しっかりしたまえ」
と、雪絵に肩を抱かれ、朦朧と自分名を呼んだ頬を撫でた。
「彼女はね、それでも躊躇っていたんだ──優しくて、弱い人だ」
しかし、そういう人間はみな、見てはならない矛盾の狭間を覗いてしまう──と、洋二は悲しげに云った。
「彼女は今でも、心からキュベレー神を信仰しているし、他人の男根を切除して、自分の一部しようと考えている──でも、それでも彼女は迷っているよ。それをすれば、相手が死ぬ事を理解しているからね」
「そ、れじゃぁ……その女は今まで、誰も──」
「そう、殺していない。だから、誰も知らなかったんだ」
きっぱりと、洋二は云い切った。
しかし、それで納得がいった訳では無い。
心配そうな雪江の手を払い、体を起こす。
「──けど、あの女は」
婀娜に嗤って、俺を襲った──
「そう──君を襲った時、彼女は彼女ではなかった」
「……キュベレーの、女神とやらだったんだろ?」
その通り──と、洋二は小さく頷く。
「彼女が女神に成り替わった時、見える男はキュベレーが愛したアッティスに他ならない。だから、彼女はあれほど艶やかに男に迫ったのだと思うよ」
洋二は云う。
「しかし、そのアッティス達は皆、彼女を振り払って逃げた……当然だろうね、何せ彼女はナイフを持っているし、物狂いの如き虚ろな形相───そんな女を抱いて、只で済むと思う男はいまいよ」
──では、彼女は本当にキュベレーに成り替わる事を諦めたのか?
尋ねると、洋二冷え切った珈琲を啜り、苦そうに眉を顰めた。
「さぁね──」
───なんだと?
忍は眼を見開いた。
「おい、どういう事だ?だって、お前は昨日その女と──」
「ああ、話したさ。もちろん、彼女の今の気持ちも全て聞いた」
しかし──と、洋二はカップを置く。
「彼女自身、どうして良いか解らないんだよ」
洋二の瞳が、悲しげに伏せられた。
忍は思い出すのは、あの夜、立ちはだかった洋二を見た女の姿──
──そう、彼女は泣いていた。
神話の女神。
現実の自分。
その間から生まれたあの赤黒い怪物は、やっとの思いで生やしたであろう、生白い手で顔を覆い──泣いた。
その時、忍にはそれが解らなかった。
狂人ならば、狂人らしくすべきだとすら思った。
──しかし今では朧気に、あの怪物の涙が解った様な気がしている。
「さて──」
と、洋二は云うなり立ち上がって、俯く忍の頭を見下ろした。
「もうすぐ、彼女がやってくるが───君は、どうする?」
どうする──か。
忍は、顔を上げた。
そんなものは、もう決まっている。
「会うに決まってるだろ」
そうして、文句の一言でも云ってやるさ───と、忍は眉を上げてみせた。
「それは云い──しかしあまり怒らせて、本当にアソコを切取られないでくれよ」
妄想狂が笑った。
隣から、クスクスと、微笑む雪江の声がする。
──ふいに、洋二が言った。
「やぁ、こんばんは───」
忍は振り返えた。
夏の夜。
湿った風が、頬を撫でる。
開け放たれた店の扉──
──そこ立つ、赤いドレスの女の姿を見て、ふと、忍は目を細めた。
4
不思議な夜だった。
この悪名高い純喫茶『フールズ・メイト』には、常に何人かの常連客がいる。
ある者は奇怪な本を読み、あるものは妙な歌を歌う。
そんな変人達が、今、一人も居ない──
店の扉を開け、そこに広がる暗闇を前に、忍は呆然と立ち尽くしていた。
確か、今日は定休日では無いはずである。
店の扉を見る。しかし、それらしい張り紙は無い。
───どうしたんだ?
訝しげに首をひねり、踵を返す。
「……やあ、こんばんは」
眼の前に、男が居た。
闇に溶けたスーツの輪郭が、微かに月光を撥ねている。
洋二──
忍はその影に歩み寄った
「店が閉まってるんだけど、今日は休みか?」
いや?そうでは無いはずだが──不思議だねと、妄想狂は愉し気に笑った。
「もしかしたら、何かの陰謀かもしれない」
「またそれか……」
忍の顔が曇った。
当然である。こうなった洋二はもう、止めようが無い。
「いいかい、これは僕の想像なんだが」
と、洋二は忍を誘う様に、ゆらりと壁にもたれた。
「もしかしたら、マスターはどこかの組織に連れ去れたんじゃないか?だって、今日は定休日じゃないし、もし休むなら、張り紙の一つでも貼るべきだろう」
言葉に熱を帯び始めた洋二を他所に、忍はその隣に座り込み、空を見る。
「んな訳ねぇだろ……どうせ、何時もの競馬だよ」
見上げた夜空は、周りのビルの黒影に縁どられ、薄暗い四角形を描いていた。その中に、半円を描く月が一つ、青白い燐光を放ちながら浮かんでいる。
まるで、閉じ込められた夜空───
忍は、その空を見上げながら、洋二の戯言を聞いていた。
「競馬にしたって、あのマスターならちゃんと書き起きを残す筈だ。それに、近頃この店にやってきた客が怪しいと僕は睨んでる。あいつ、一眼レフのカメラに地図、おまけにビデオカメラまで持ってたんだ、どう見ても組織の監視者さ」
「───それは、ただの観光客だろう」
四角夜空の月を見ながら、忍は呟く。
隣から、スーツをまさぐる音が聞こえた。
「いいや、違うね──あいつは間違いなく組織の人間だ」
金属が擦れる音がした。
「それに、僕が話しかけたとたん、あいつは逃げた」
視界の隅に茜色が瞬いた。
細い煙が伸びた。まるで雲の様に、見上げた月が朧に霞む。
「───お前に話しかけられたら、聖人君子だって逃げ出すよ」
「はは、聖人君子ね──しかし、僕は聖人君子には話しかけない。な僕が話しかけるのは怪しい人間だけだからね」
「じゃあ、今お前は、俺が怪しい人間だから話してるのか?」
忍が首を曲げた先に、煙草を咥えた洋二が、とうぜんだろう?──と、意地悪気な視線を投げていた。
「───ったく……」
と、忍は憎々し気に呟いた。
「所で、今日は水曜だろ?」
「そうだが、どうした?」
「いや、ほら──彼女、来るのかなって」
「雪江君か?彼女なら、今日は本格的に引き籠る様だが」
いや、それじゃ無くて───と、忍は、その女の名を口にした。
「───ああ、彼女か」
その名を聞いて、洋二はやはり、意地悪気に眼を眉を上げる。
どうやら、態とはぐらかしていた様だ。
忍が睨むと、悪戯な目は逃げる様に、するりと空を見上げた。
───西原恵子。
それが、あのキリトリ魔の名前である。
あの夜、店に現れた赤いドレスの女を見て、忍はまず、目を細めた。
まるで、違う女である。
服装や、顔は同じ──だが、そこにはあの夜、闇の中で忍を襲った、あの怪しげな妖女の面影はまるで無かった。
足元を見た。
もう、女は裸足では無い。黒いヒールが、白い足を覆っている。
──これが、キリトリ魔か。
驚く忍の元に、そろりと赤い女が歩み寄った。
「───で、あの時の君の顔ときたら、そりゃもう───」
可笑しくてたまらないらしい。
隣で嗤う洋二は、咥えた煙草を落としそうになっている。
──こいつは、人の気もしらないで。
「五月蠅いぞ、妄想狂」
と毒付くものの、洋二は笑い転げながら
「───いや、なんだ、すまん」
と、また笑いだす。
「大体、おまえがもっと早く俺に教えてれば良かったんだよ」
必死に声が尖らすと、そこで、ようやく笑い声は止んだ。
口元に笑みを引き摺りながら、洋二はぼんやりと空を見上げる。
「それは、無理な相談だ───彼女は、この店の常連だからね」
と、洋二は云った。
口元からは、すでに笑みは失せている。
「この店は、まさに変人達の巣窟だ──どうしようも無いはみ出し者達が集まって、皆、それを隠そうともせずに、この店で過ごす」
ごつり──と音がして、洋二は後頭部で壁を小突いた。
「だから、彼女はこの店に来れた……いいや、彼女だけじゃない。この店に居る殆どの常連客達も、僕も……雪絵君も……この店が、どうしようも無い『狂人達の楽園』だからこそ、やって来れた」
「狂人達の、楽園───」
「そう、この店は、そういう奴らの為の最期の場所なんだと思う……仕事も、趣味も、性別も……たとえ、人を殺しかけた元両性具有者であろうとも、易々と受け入れる」
洋二の顔が傾き、忍を見つめた。
「───人は、何故狂うのだろうね」
忍は、思わず声を上げそうになった。
壁にもたれ、青白い月光を撥ねる洋二の顔───それが、あまりにも美しかったのである。
「狂気とは何か──どうして、狂人などが生まれるのか──君は、考えた事があるかい?」
忍は何かを云おうとした。
しかし、上手く言葉は出ない。
伝えたい事はある……だが、それは濁っていて───赤黒くて──酷く、矛盾している。
「彼女は、ずっと狂ったままなのか?」
知らぬ間に、忍は声を走っていた。
ふと、脳裏に赤いドレスが浮かんだのである。
ナイフを持って自分を誘った、あの婀娜な笑み。
忍の前で頭を垂れ、涙を流した女の顔。
忍には、どちらが本当の彼女なのかは解らない。
そのどちらも彼女だとも思うし、また、どちらも違うのかもしれない。
──なら、狂うとは何だ?
それは、矛盾の中にある赤黒い影なのだと、洋二は嘯く。
あの時、云い知れぬ喪失感の中で忍はそれを見た。恐らくあの女も、自身の矛盾と向き合った刹那、同じ陰影を見たに違い無いのであろう。
──では、洋二は?
この男もまた、あの赤黒い狂気を見たのだろうか?
あの云い知れぬ喪失感を、斑模のうねりを───もしも、この男が今も、それを見続けているとしたら。
「───さぁね」
と、洋二が云った。
その声に混じった微かな嘆きを、忍は確かに聞いた。
「───ぼくはずっと、その事を考えている……」
眼前。
見つめる妄想狂が、不意に嗤った。
それを見て、忍もまた嗤う。
四角い月夜と同じく、黒い塀に囲まれた魔窟。純喫茶・フールズメイト。
その中には今、濃厚な闇だけが鬱蒼と立ち込めている。
此処は、狂人達の楽園であり、牢獄。
その入り口に立ち、月光を浴びて嗤う彼らもまた、そこでしか生きられない哀れな住人達である。
さて、貴方は一体、この店で何を見ただろうか?
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