フールズメイト(過去作)

 とある夏の夕方。

 黄昏れた街をひた歩き、一軒の酒屋と、堆く詰まれた本の山に埋もれる古本屋の前

で立ち止まると、ふと、貴方はそこで店の間に伸びる小さな横道を見つけてしまう。

 その横道は、道というには随分と狭く、暗い。

吹き流れる風は酷く湿っており、まるで魔窟如き有様。そこから見える路地の地面には、吸殻だの、食べ残しのカップ麺だのが無造作に転がっている。

 しかし何故か、貴方は吸い込まれる様に、その暗闇に滑り込む。

不思議と高鳴る鼓動を聞きながら、何の汚れかも解らぬ黒ずんだ壁を撫でる。怪物の巣の中に足を踏み入れた面持ちで、ゆっくりと、薄暗い道を進む。

 そうして暫くその道を進んだあと、ぽっかりと、ビルの合間に広がった空間に出た貴方は、そこで一軒の店を見つける事になる。

 今にも壊れそうな、骨董品じみた店構え。埃にまみれた空気の向こうに見える看板は傾き、塗られた青と黄色のペンキは途切れる様に擦れている。 

 ───その店の名は『フールズ・メイト』

 無口な店主。

 懐かしの歌謡曲が流れる店内。

 美味い珈琲だけが売りという、完全無欠の純喫茶である。

 この様な魔窟の如き場所に店を構えるせいか、決して人の入りは良く無い。日に二、三人の常連客が来るもの、新しい客が入いるのを近頃見た者は居ない。

では、店の名前が売れていないのか──と云われれば、そういう訳でも無く、近所の人間で知らぬ者は居ないと言うほど、その店の名前は売れている。

 しかし、その売れ方がまた悪かった。

店を知る人間からは『馬鹿者達の集会場』と噂され、蔑まれ、その道に通じる路地の前を通る度に唾を吐き掛ける者すらいる程である。

 では、なぜそんなにも人々はこの店を忌み嫌うのか──

その理由は至極単純。この店の常連客達が、それは眼も当てられぬ程の、稀代の変人ばかりだからである。

 例えば、毎週火曜にやって来る老女───彼女は未来を予言出来ると嘯き、ノストラダムスの如く要らぬ助言で人を惑わす。

 水曜にやって来る女は、自分を神の生まれ変わりだと言い張る。戦く人を掴み、その体の一部を我が物にしようとする。 

 他にも誇大妄想狂の探偵──引篭もりの少女──映画狂いの青年と───と、まさに狂人達の楽園と言った有様。何の気無しに立ち寄った常人ならば、頼んだ珈琲が運ばれる前に、上着を置いて逃げ出すであろう。

+

 しかし今、貴方はその店の前に立ち、錆付いたノブに指先を伸ばそうとしている。

 はやる気持ちを抑え──ときめく胸を撫で──触れた鉄の冷たさに、思わず体を奮わせている。

 ───では、あなたは彼らと同じ狂人だろうか?

 それとも、興味本位でやってきた、只好奇心旺盛なだけの人間だろうか?

 ならばそれこそ性質が悪い。狂人よりも性質が悪い。

けれど、それはどちらでも同じ事。結局、貴方は触れた鉄の球体を握り締め、それを捻る───

 さて、今日も店の扉が開いた。

 店の中に居るのは、赤いドレスの女が一人。

 彼女が一体、どんな狂人であるか──それを知るのはまだ先の事だが、まずは彼女の趣味を少しだけ、さらりと小説仕立てに説明するとしよう──

───それは、とても濃厚な闇だった。

 ねっとりと、まるで粘る様な暗闇が満ちた場所に、吹き抜ける風は無い。

 夜のトンネルだ。

 明かりの無い、短いトンネルである。

 その闇の中に、ぼんやりと一人の女が見えた。

 赤いドレスがある。

 その赤が、どろりと、闇の中に溶けつつある。

 見れば、女は裸足。

 トンネルの壁に背をあずけ、垂れた長い髪の合間で、膝を抱いている。

 ぶるりと、女の頭が震えた

 交差した腕の先に、鈍い光が見えた。

 ナイフである。

 刃先が奇妙にうねっている。

 そのナイフを見詰めた後、ゆらりと女は立ち上がった。

 何かを呻いている。 

 女の腕が、するりと首に絡んだ。 

 細い指先が、股間の上を這っているのが解った。 

 闇の中、うねる刃が高々と持ちがるのが見えて、ぞくりと、愉悦が背を駆けた。

 ───さぁ、くださいな。 

 はれぼったい唇が、ぐにゃりと、婀娜に歪んだ───

………さて、どうやらこの女、やはり普通では無い様子。

 闇夜で貴方をたぶらかし、婀娜に嗤う妖女である。

では、貴方はこの女が闇夜でしでかした奇行を一体、どう見るだろうか?

 狂人の単なる気まぐれ?

 それとも、何か訳があっての事? 

 しかし、それが解るのはまだ先の事──

──どうやらもう一人、別の常連客がやって来る様である。

           

          2  

  その日、大野忍が店に着いたのは午後6時を周った頃だった。

 夕闇を抜け、店へと続く横道の前に着くと、その余りの暗闇に思わず足が止まった。

 建物の間に佇む、異様な闇。まるで怪異の潜むが如き、怪しげな暗がりである。

 ───もう、店は閉まっただろうか?

 身を屈め、恐る恐る横道を覗き込む。暗闇の奥にぽつりと、小さな明かりが灯っている。

 やはり行かねばならない。

 忍は身を屈めたまま、横道へと身を滑らせた。

 粘る様な闇を掻き分けると、やがて小さな広場と、その奥で明かりを放つ店の扉が現れる。

 その扉に駆け寄り、忍はノブに手を掛けた。捻ると、微かな音が聞こえた。

 ───確か、この曲は・・・・・

 と、忍は記憶を探りながら、後ろ手で扉を閉める。

 店の中には、やはり殆ど客は居なかった。

 煙りにまみれた橙色の空気の向こうで、四人掛けのテーブルを占領する客が一人、新聞を広げているスーツ姿の背中が見える。

 店内に流れる曲は、何処かで聞いた様なフレーズを繰り返している。

 忍が足を踏み出すと、その黒い背中がくるりと回る。

 「───やぁ、遅かったね」

 「……別に、今日は昼間のバイトだったから」

  ぎこちなく応える忍に、男は横目で笑いかけた。

  ──やはり、あの事を云うべきか。

  忍は迷った。

  迷いながら、ふと、この男に云って良いものか──とも思う。

 「・・・・あれ、雪江ちゃんは?」

  結局、忍は関係の無い事を尋ねた。

 「ああ───彼女なら・・・ほら、そこに」

  男が指を指す。

その先には、壁の隅で蹲る白いワンピースの背中があった。

 「・・・・・あれ、何してんの?」

 問いながら、忍は思わず顔を顰めた。

「まぁ、なんというか・・・・・儀式、みたいなものさ」

 ──儀式?

 店の隅に蹲る少女と、目の前の男を見比べる。

 「そう、儀式」 

 男はさも興味無さげに呟き、新聞を捲った。

 「あれは、彼女が彼女である為の儀式・・・言わば、存在主張みたいなものさ」

 「──部屋の隅に蹲る事が?」

 「そう、それが儀式」

 男は新聞を閉じた。

 テーブルの上に置き、隅で蹲る少女に声を掛ける。

 「おーい、雪江君。忍君がお見えだよー」

 しかし、蹲る少女は一瞬、その薄暗い瞳を此方に向けたものの、すぐにまた壁に向き合い、奇異な姿で佇みはじめた。

 「・・・・・どうやら、まだ儀式が足りないらしい」

 男はどこか満足気に笑うと、懐から煙草を取り出し、口に咥えて火を付ける。

 紫煙が漏れた。

 立ち上った煙は電球の明かりに飲まれ、橙色に散る。

 「ああ、しかし退屈だ」

 と、咥えた煙草を指に移し、男は嘆く。

 それを見て、忍は嫌予感がし、注意深く男の名を呼んだ。

 「洋二───また、妙な事考えてるのか?」

 訝しげに見つめる忍を見て、男はまるで子供の如く、悪戯に頬を釣った。

 ───田村洋二

 このスーツ姿の男の事を説明するにあたり、まず三つの言葉が考えられる。

 長身。

 探偵。

 そして、妄想。

 何か不審な事が起こると、すぐにそれを世の一大事の如く騒ぎ立て、まるで世界が終わらんばかりに事を大きくする───所謂『妄想狂』の一人であると、忍は認識している。

 ちなみに洋二の場合、妄想と言っても少し変わっている。

 簡単に云えば、偉大な勘違い───巨大な組織に追われているだとか、謎の暗殺者に命を狙われているといった類の妄想。例えば、彼は席に座る時、必ず入り口から遠い場所を選び、背を向けて座る。これは本人曰く、追ってに自分の顔を確かめさせない策だそうである。

 それが、彼の病気──名は『パラノイア』だと、忍は雪江はから聞いた事を思い出す。昔、その病が原因で精神病棟に入れられていたそうだが、本人曰く『自分の圧倒的な戦略によって彼らが音を上げた』───つまり、追い出された訳である。

 忍には、洋二の抱える難しい病気の事は解らない。だが、医師がさじを投げ、この男を病院から放り出した理由は、はっきりと解る。 

なにせ、この男は病人というにはあまりにも奇妙過ぎた。

健康な体。

日に焼けた様な浅黒い肌。

凛と響く声を持つこの男は、一見、人並み以上の健常者に見える。

やっている仕事は探偵。頭も悪く無いのだろう。時折彼が喋る言動や知識に、忍は感嘆の声を上げる事もある。

だが、そうやって常人の片鱗を見せる時以外、彼は常に奇人であり続ける───嬉々として語るのは、陰惨怪奇たる暗殺談や奇談、怪談などの類ばかり───そんな知識で自分の妄想を満たし、自分を襲う陰謀説や暗殺説を捻りだす洋二は、正直怖い。探偵というのも、恐らく妄想の産物ではないかと忍は疑っている。

 

 そして、もう一人。現在、部屋の隅で蹲り、怪しげな儀式とやらに耽るワンピース姿の少女───山野雪子。

 歳は十九と若いが、その割に、肌は青ざめた様に白く、ワンピースの端に浮き立つ鎖骨は、肺病みの如く華奢である。

 忍が、この陽炎を思わせる少女と初めて会った時、隣に立った妄想狂はこう説明した。

 ────彼女は、引篭もりなんだよ───

 その瞬間、忍は言葉を失っていた。

 しかし、目の前で恥ずかし気に身を捩る少女と、耳元に聞こえる洋二の説明を聞く内に、次第と自体を把握する。

 彼女──山野雪江は、どうやら中学の半ばから引き籠りを始めたらしい。

両親は海外出張で殆ど家に戻らぬらしく、その短い人生の半分を一人ぼっちで家の中で過ごしていたのだが、二年程前から、ひょっこりとこの喫茶店に通う様になった──という。

 なら、喫茶店に来ている時点で、彼女はすでに引篭もりでは無いのでは無いか?──しかし雪江曰く、どうやら彼女の家はこの喫茶店が入るマンションの上らしく、この建物自体が両親の所有物件……つまり、この建物から出ない限り、引篭もりである事には変わらないのだ───と、雪江は恥ずかし気に頬を染めるのを見て、忍は黙った。

   

 つまり今、奇しくもこの店に居るのは、健全なる妄想狂と、引き籠らない引き籠り──そして、場違いに平凡な自分なのだと、忍は改めて悟る。

 自信を持って言えぬまでも、忍は自分が変人だとは思わない。バイトをしながら、趣味の自主制作映画に耽る普通の若者──多少変わった物が好きではあるが、それでも、架空の追っ手を危惧する男や、壁に蹲る少女に比べればましである。

 しかし、忍はこの店に通い、彼等と話す。

その理由は、未だ忍自身にも解らない。ひょっとすると、自分も変人なのでは無いかと思う事があるが、洋二や雪江、このフールズ・メイトにやって来る奇妙な人間達を前にすると、その疑念は忽ち消えてしまう。

 ───それでも、今日の忍には、彼らと話す理由が存在している。

 「───なぁ、洋二」

 口元から珈琲が離れた

 忍はやる気を抑え、勤めて密やかにカップを置いた。

 「その、あんた……探偵なんだろ?」

 無論、それを信じている訳では無い。

 だこの事を話す切っ掛けを作りたかっただけである。

  ああ、それはそうだが──と、妄想狂は、平然と云う。

  しかし今、それが例え妄想の産物であろうとも、忍は良いと思っていた。

 「いや・・・少し聞きたい事があってね」

 そこで忍は言葉を止め、カウンターを見た。マスターは何時もの様に、こちらに背を向けて競馬新聞を熱心に読んでいる。

 その姿を確認したあと、忍はもう一度洋二を見る。

 「実は・・・・その、気になる女が居てだな・・・・・」

 「気になる女性?そいつは此処の客なのか?」

 「いや、そうじゃ無いんだが……」

 「ほう・・・・・それで、どうしてその女性を?」

 洋二は随分楽しげだった。恐らく、片思いの相手か何かと思っているのだろう。

 「いや・・・・実は・・・その・・・」

 「なんだ?らしく無いじゃないか。ほら、はっきいと言いたまえ」

 と、忍の肩を突付きながら、ニヤニヤと笑う。

 しかし、忍から言わせればこの戸惑いは当然だった。なにせ、あんな出来事を、一体どうやって人に伝えて良いものか────忍には、それが解らない。

 「その・・・・・あ・・・あそこを・・・・・」

 「あそこ?おいお、まさか君───」

 「いや、違うんだ!・・・いや、違わないか・・・・・・」

 「違わない?まったく、一体何が言いたいんだ?」   

 一向に煮え切らない忍に、洋二は苛立っている様だった。

 確かに、このままでは要らぬ誤解を与えてしまう。

 ────忍は、覚悟を決めた。

 「あっ・・・・・・・あそこを………き、斬り取られそうになったんだ!」

    3

 

 その夜、忍は遅めのバイトを終え、商店街の夜道をひた歩いていた。

 時計を見ると、すでに夜の十二時を過ぎている。普段ならば、とっく家に居る時間であった。

 忍は石畳を駆けた。

 自分の足音だけが、嫌に闇夜に響いた。

商店街を抜けた所で、目の前に現れたガード下が、ぽっかりと大きな口を開けているのが見えた。

 忍の家は、そのガード下を越えた駅の反対側にある。故に、その暗いガード下を当然通らねばならない。

 しかし、忍はその前で足を止めた。

 妙な胸騒ぎがしたのである。

 線路の下に穿たれたその穴は歩行者用のものである。したがって、酷く狭い。おまけに電灯も付いておらず、濃厚で、まるで底の見えぬ闇が穴の中へと続いていた。

 しばらくの間、忍はその穴の手前で迷った。

 さて、この道を行くべきか────と、腰を屈め、ガード下の闇を覗き見た。

 刹那、忍は呻いた。

 ────なんだ、あれは?

 闇の中に、赤い色が浮かんだ。

 しかも、動いている。

ゆっくりと、しかし確かに、その赤が闇の中からにじり寄る気配がした。

 忍は動けなかった。

 木偶の様に固まった手足は震えるばかりで、まるで言う事を聞かない。

 視線の先で、その赤がぬるりと、闇から這い出た。

 ──女。

 赤いドレス。

 長い髪。

 闇に浮いた白い顔。そこで緋色に濡れた唇が、くるりと嗤った。

 女の右手が伸びた

 伸びたその先で、闇の中に何かが光る──

 ナイフだ。

 それも、まるで蛇の様に、奇妙な形で刃先がうねっている。

 短刀を手に、女はするりと近寄った。

 忍の前に立つ。いきなり、女は手を伸ばし、縮み上がった股間を掴み上げた。

 ひぃ──と、呻く声を忍は聞いた。

 その声が自分のものと気が付いた刹那。女は忍の耳に唇を添え、云った。

 「────さぁ、くださいな」

 ───その瞬間、忍は吼えた。

 女を突き飛ばし、一目散に駆け出した。 

 走りながら後ろを振り返ると、地面にへたり込んだ女が見えた。

 その虚ろな顔が、じっとりと此方を見て───笑った。

 

  

 

 カップを置く音が響いた。

 で?その後は──と、洋二が呟く。

 「ああ、気がついたら家に居たよ」

 お決まりのパターンだった。

部屋の中で布団を被り、夜の帳が過ぎ去るのを待つ───

洋二は頷き、なるほどね──と、カップの淵を撫でた。

 「それで、君はその女性に見覚えは?」

 恐らく無いだろう。

否──ある訳が無かった。

いくら変人ばかりが集まる店に顔を出しているとはいえ、その様な異常犯罪者を知り合いに持つ覚えは無い。

 「ねぇよ……第一、知ってたらお前に相談しねぇだろうが」

 「まぁ、確かに」

 洋二は、ぼんやりと濡れた指先を眺める。

 「それで、僕にどうしろって言うんだい?」

 「調べてもらいたいんだよ」

  その偉大な妄想抜きにして、真剣に──と、忍は続けた。

 「僕を妄想狂扱いするのは勝手だが……まぁ、良いだろう」

  と、洋二は忍を見ると、意地悪気に頬を釣った。

  正直、意外である。

  確かに相談しようとは思っていたものの、この変人がここまで簡単に承諾した事に、忍は驚いていた。

  ──何かあるな。 

しかし、今はそれを詮索する時では無い。

それに、この狂人の心の内を知るなど、所詮無理な試みである。

 「で、ちなみにその話、お隣のお嬢さんも加わって良いのかな?」

 ──隣?

 忍は慌てて首を曲げた。そこは、最前まで部屋の隅で蹲っていたはずの少女が椅子の上で膝を折り、何時の間にか珈琲を啜っている。

 忍は黙った。何せ、この話は少々───卑猥だ。

 「・・・・・私、別に大丈夫よ・・・・・」

 と、少女は珈琲を啜りながら、暗い眼差しで忍を見上げた。

 「・・・・・それに、そういう話・・・興味ある・・・・」

  興味がある──

 それは、つまり卑猥な部分にか──と言いかけたのを、洋二の声が遮った。

 「なるほど、よし、それじゃぁ決まりだ」

  と、引き籠り少女の失言を意にもかえさぬ素振りで、洋二は嗤った。

 「では、まず質問一──君は、その女──まぁ、ここではキリトリ魔としよう。キリサキ魔でも良いが、切られる部分が部分だからこっちの方が良いだろう。で──」

 そういった目にあったのは、初めてか?───と、洋二は言った。

 無論、初めてである。そんな目に何回も会う様な輩が居たら、是非会ってみたいものだと忍は答えた。

 「では、質問その二……その女の噂を、今まで聞いた事があるかい?」

 忍は、しばらく思案した。

 しかし、いくら考えても思い出せ無い。

 口裂け女や、足の無い女の都市伝説めいた話は聞いても、男性器を切り取るなどとい奇妙な噂は、今まで一度も聞いた事は無かった。

 「──ねぇよ、これっぽっちも」

 と、忍は指先で小さな隙間を作って見せる。それを見て、そうか──と洋二は顎を撫でた。

 「君はどうだい?雪絵君」

 尋ねられた少女は、困った様に顔を顰めた。長らく切っていないという髪を毟り、首を傾げる。

 「……なるほど、つまり、そんな噂、誰も知らないと言う事か」

 珍しく、洋二の顔が曇っていた。

 妙な話である。自称引き籠りの少女はともかくとして、この男が、この様な怪しげな話を知らないのは不自然だった。

 「………じゃぁ、それって……」

 忍の隣から、怯える雪絵が膝を抱く気配がした。

 「………忍君が、初めての被害者……って、事?」

 確かにそうなる。

 男根を切り取るなどという、奇妙極まり無い噂がどこにも流れて居ない以上、誰も被害者が居なかったと考えるべきである。

 しかし、忍は解せなかった。

 脳裏の闇には、何時の間にか、あの鮮烈な赤が浮び上がっている。

 目を閉じると、闇の中で、赤いドレスが踊るのが見えた。

 長い髪を振り乱し、迫る女 

 ──笑っている。

 腫れぼったい唇に浮かぶ、妖しげな笑み──

 「───あの女、嗤ってやがった」 

 「嗤っていた?」

 洋二が尋ねると、忍は目を開き、訝しげなその顔を睨んだ。

 「ああ、間違い無い。俺にはとても、あれが初めてやった事だなんて見えなかったぜ」

 なるほどね──と、洋二は頷く。隣の雪絵も、何事かを思案する様に、膝の間からぼんやりと机を見ている。

 「じゃぁ、その行いが幾度目かのものだとしてだ───それじゃぁ、男根を切り取られた相手はどこへ行ったのだろうね」

 と、まるで自らに問う様に、洋二は云う

 「医学に明るい訳じゃ無いが……確か、男性器というものは海綿体で大量の血液を循環させている。そこを斬るとなると、余程の処置をしない限り、確実に出血多量で死んでしまうだろうね」

 忍は、そういうものなのかと呟いたその後、あの時触られた股間の感触を思い出して──思わず、ぞっとした。

 「まさか──本当に、死ぬのか?」

 「ああ、死ぬとも。しかも路上でだろ?まず助からんだろうさ」

 洋二はつまらぬ事を聞くなと言う風に、卓上の煙草をつまみ上げ、口に咥えた。

 ───つまり、あの時、本当に殺されかけたいたのである。

 忍は震えていた。

 耳元に蘇る、厭に湿った唇の感触──

 

 ────さぁ、くださいな

 ぞくりとした。

 あの、美しき妖婦の囁きを聞いた時、忍は決して死を意識した訳では無。ただ、目の前の女から放たれた女の言葉が持つ、陰惨で、背徳的な悦びから、身を捩っただけである。

 しかし、違うのだ──と、忍は頭を振った

「──まぁ、そのキリトリ魔が何人の男のアソコを斬ったのかは別としてだ」

 煙草に火を灯し、洋二は煙を吐く。

「君は、その女の顔を見たのか?」

 ──顔?

「いや──良く覚えていない、暗がりだったし、ドレスやら、変なナイフは覚えているんだが……」

 あのガード下には電灯は無い。しかも真夜中──怯えていた忍に、女の顔が判別出来る余地は無かった。

 その時、忍は洋二の指先が微かに震えるのを見た。

「───変な、ナイフ?」

 そう言って、吸い始めたばかりの煙草を灰皿に押しつぶすなり、そのナイフはどんな形なのだ?と、洋二は椅子から背を離した。

「ど、どんな形って、その──」

 ───闇の中、女の腕の先に、鈍い光が走る

「そうだな……なにか、こうナイフの中程からグネグネっと、蛇みたいにうねってた」

 蛇みたいにねぇ──と、洋二は呻く様に呟く。

「──それは、何か西洋の短剣の様なものだったか?」

「西洋の?…ああ、何か映画に出てきそうな奴さ。ほら、中世騎士モノで、暗殺者が持ってそうな──」

 そこまで言いかけ、忍は慌てて口を噤んだ。

 そう、キリトリ魔の話で忍はすっかり忘れていが、今目の前にする男は、陰謀だの暗殺だのが三度の飯より大好きな、稀代の誇大妄想狂なのである。そんな男の前で、『暗殺』などと口にする事は、また要らぬ妄想を抱かせるに違い無かった。

 しかし、どういう訳か、妄想狂いはその事にまるで関心を示さなかった。

 洋二は、何か思いつめた様子で天井を見上げていた。椅子の背にもたれ、先ほどまで燻らしていた紫煙の後を目で追っている。

 「………あの……すいません……」

 と、雪絵が膝の間から顔を上げる。

 どうしたんだい?と、虚ろな洋二の代わりに答えると、雪絵は恥ずかしげに頬をそめ、あの─その──と、なんとか言葉を紡いだ。

「……その、少し気になったんですが………」

 何が気になったのか?と忍が尋ねると、少女はさらに頬を染め、まるで自身の初恋を告白するかの如く云う。

 「……いや……あの、男の人のアソコを斬り落とすって………その………どういう気分なのかな?って………」

 「どういう気分?」

 怪訝に思い、忍は尋ねる。

 「あ、いや違うんです……その、ちょっとだけ、その女の人の気持ちを想像してみただけで………」

 この少女は、なんという想像をするのか──忍は唖然とした。

しどろもどろになりながら、なんとか雪絵が言葉を終えた瞬間。なるほど──と、天井をぼんやりと見上げていた洋二が声を漏らした。

 「確かに興味はあるな。そのキリトリ魔が何を思い、何故君の男根を狙ったのか───」

しかも、殺すことすら辞さずに──と、洋二は付け加える。

「男性の性器を切り取る──この行為に、どんな思惑が隠されているか。まぁ、おそらく雪絵ちゃんが思い描いたのは、きっと恋愛感情の縺れとか、そういった類の事を想像したのだろう?」

 図星なのか、雪絵は頬を染め、何事かを呻きながら膝の中に顔を埋める。

「しかし、残念ながら──」

 と、洋二はカップを手にとる。

「この忍君は、どうにもその女を知らない。ならば痴情の縺れという線は消えるが───となると、一体どういう事が想像できるか──」

 洋二は悠然と珈琲を飲み、云った

「例えば、男根そのものに恨みを抱いている場合───そうだね、昔強姦されただとか、その手の類の経験から、男性器に対する憎悪を抱いている女というのも想像に難くない」この話を聞いた途端、忍の脳裏で、男女の体が入り混じるおぞましい妄想がどろりと溢れ、吐き気がした。 

「しかし、気になるのはその女の所作だ。恨みがあるのならば、もっと残忍な手口で───例えば、忍君を背後から襲うとか、頭を殴った後、手足を縛り、身動きが取れない状態にしてから、目の前でアソコを斬り落とすなんて方法も考えられる」

 忍は、思わず洋二の目を見た。

 その瞳が、最前と違う光を帯びているのを見て、視線を逸らす。

 ──なんと恐ろしい妄想だろうか。

 もしも自分が、そんな目に会ったならば──

頭蓋の中で、最前から氾濫するおどろおどろしい妄想が、次第に渦を巻き始めたのがわかった。

 「──しかし、彼女はそれをしなかった」

 虚ろな意識の外から、洋二の声が聞こえた。

 「キリトリ魔は、なぜか堂々と正面から現れ、意識を失わせる事も、縄で縛りあげる事もせずに、まるで淫婦の如く、忍君を誘った──」

 ──そう、あの女は、俺を誘った。

 股間を握り、耳元に唇をあて──

 ───さぁ、くださいな。

 もう、限界だった。

 朦朧と手を差しのばし、煙草をくれと洋二にせがんだ。

 「いいのかい?君は、煙草は吸わない主義なんだろう?」

 「いいから、よこせよ──」

やはり、この男に相談したのが間違いだったと、忍は後悔していた。

 洋二が云う事は、確かに正しい推論である。それは解っている──だが、忍はとても聞いては居られなかった。

それが、この男の持つ魔力である。自身の描いた妄想を疑う事無く信じこめるこの男の精神は、時として、容易に他人の脳髄を犯し、破壊する。

洋二が渡した煙草を、半ば強引に奪い取り、忍はそれを口に咥えた。

火を付け、大きく煙を吸い込む。忍は派手に咽た。

 「だから言っただろうに」

 まるで、悪戯な子供の様な声が聞こえた。

 「まぁ、ともかくこれは、一度この目で確かめた方が良い」

 確かめる

 一体、何を? 

 忍は顔を上げる

 紫煙の向こうに、ぼんやりと洋二が見えた。

 嗤っていた。

 あの時の女の同じ──嬉々として、それはとても愉しそうで。

 「彼女に、会いに行こうじゃないか」

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