『玩具』

 その昔、東京は板橋区の外れ。赤羽駅に程近い、北区との境に位置する丘陵地帯には、貧乏人の巣食う長屋の屋根やら、赤茶色のあばら家が折り重なっており、それらが陰鬱としたモザイクを描いて丘を覆い尽くす様は、夕暮れになると、まるで鱗だらけの半獣が、街中に蹲っているごとく見えたりもした。

 そんな小高い丘の背に建つ、一風変わった建物に住んでいたのが、もう数年程前になる。

 私自身、元来飽きっぽく、この歳になるまで転々と住処を変えて来たので、いったい何時頃そこに住んでいたか解らないが、あの建物の姿だけは、今でもはっきりと覚えている。

 くすんだ白壁に彫られた『木馬荘』という文字が嫌に寂しい玄関口。中に入ると、今にも崩れ落ちそうな鉄製の階段が続いており、その両側には、木目調のドアが二つ、行儀良く向かい合わせに張り付いている。

そんな光景が最上階まで繰り返される、当時では珍しい5階建ての木馬荘の外観は、まるで巨大な白塗の長持が、丘の腹中に聳え立って居る様に見えたものである。

 しかし、近所の住民達は、それを古めかしい白木の箱だとは思わなかったのだろう。彼らは、建物の名前をもじって『木馬』とか、『お化け馬』だとか、各々の勝手な解釈で仇名を付けては、辺りの平屋から一つ抜き出た、その珍しい建造物に好奇の視線を寄せていたが、そう言われれば、確かに馬に見えない事もなかった。

 恐らく、あれを馬と見立てなるならば、地面から突き出た白馬の首であろう。そう呼ぶには、いささか壁面の黒墨が気になるが、それでも上手い具合に、斜めになった屋根のひさしが、手前に大きく突き出している所などが、さながら面長の、木馬の横顔に見えなくも無かった。

 あれから数年が経った今、木馬荘があった場所は、すっかり見栄えの良い高層マンションが建っており、二十階建ての光り輝く塔には、もはやあの珍奇なアパートの面影は無い。しかし、それでも尚、私の脳裏に焼きついたまま取れないでいる、そこで鮮烈な記憶は、時折、性質の悪い夢となって、眠る私の額に玉粒の様な汗を残して行くのである。

 それは、引越しの当日。友人に借りた軽トラックに家具やら載せ、いざ進展地へと、木馬荘へと向かう坂道を登っていた時の事である。

 荷台に積んだ荷物のせいか、思う様に進まない車に舌打ちをしていると、坂の向こうの夕闇から何やら転がって来る物が見えた。思わずハンドルに身を乗り出し、眼を凝らすと、それはどうやら一升瓶の様である。ゴロゴロと、時折地面を跳ねる飴色の酒瓶が、夕暮れの坂道を楽しげに転がって来ているのだ。 

 きっと、誰かが間違って転がしたのだろう。幸いまだ距離があったので、珍しく親切心を起こした私は車を止め、坂道に降り立つと、転がって来た一升瓶をエイッ、と靴の裏で受け止めた。

 途端に、衝撃が骨を伝わり、爪先から蟻の群れが這い上がる。予期せぬ痺れに、立つ事すらままなら無くなり、私は一升瓶を抱えた姿勢のまま、しばらく地面に蹲っているしか無かった。

 すると、痺れた足を摩る私の耳に、下駄の擦れる、軽快な音が聞こえて来た。顔を上げ、坂の上に眼をやると、今度は紫色の着物を着た女が、坂道を転げる様にやって来るでは無いか。

 あんな物、足の裏では受け止め切れないと、馬鹿な事を考えている内に、着物はどんどんと迫り、ついに私の眼前にやって来ると、勢いを殺せず、二、三歩前のめりに私の横を通り過ぎた辺りで、女はようやく地面に足を付ける事が出来た。

 「……申し訳ありません、つい、手が滑りまして」

 と、藤の着物が慌ててこちらに振り返える。

 歳の頃は、30過ぎであろうか、やや垂れた眼には小皺が寄り、はれぼったい唇が赤く濡れていた。

 「近所の方からお酒を貰って帰る所でしたの。けれどその瓶、なかなか重くて…」

 そう言って、頬を上気させながら、結い上げた黒髪のうなじに手を掛けるその姿は、どこか欲情的で、男心を擽るものであった。

 私は、幾らか感覚の戻ってきた足を突っ張り、よろけぎみに立ち上がった。そして、幾つかの儀礼的な受け答えをした後、手にした一升瓶を彼女に差し出して、よろしければ、車でお送りしますがと、わざとらしく頬の端を吊り上げて見せた。すると彼女は、少し考えた風に小首を傾げた後、しゃがれた甘えた声で

 「あら、それじゃぁ乗せてもらいましょうかしら」

 と、臆した様子も無く、私の手から一升瓶を奪い取ると、さっさと軽トラックの助手席に滑り込んでしまったのである。

 恐らく、渋った後に断られるだろうと思っていた私は、その大胆さに唖然としながらも、ガラス越しに誘う様な笑みを浮かべる、名も知らぬ女を見つけ、急いで運転席に乗り込んだ。

 「……では、どちらまで?」

 シートベルトを締めながら、何気ない風に尋ねる。それと同時に、自分がこの辺りの地理に疎い事を思い出して、慌てて言葉を正そうとした時、女の口が滑らかに言葉を紡いだ。

 「───それでは、木馬荘まで」

 夕日に染まった、紫地の襟元に指を這わせ、女は笑う。

 何処からか、仄かに夜の匂いがした。

 奇しくも私の引越し先に住んでいた、年齢不詳のその女は宮田芳江と名乗った。

 歳を尋ねるのは失礼だと聞けないでいたが、それでも、彼女が男好きしそうな顔立ちの美人に違いは無い。

 その彼女が言うに、仕事の方は、近くで酒場を営んでいるそうである。薄暗い車内で、うっとりと座席にもたれながら、酒瓶の雄々しさを確かめる様に撫でる芳江には、やはり夜の女に相応しい、生々しい色気が漂っていた。

 「……ねぇ、貴方」

 芳江はやはり、先程と変わらぬ、酒に焼けた声で語りかけて来る。

 「どうも引越しの最中みたいですけど、引越し先は、このご近所でいらして?」

 夜の帳が降り始めた、仄暗い坂道に人影は無い。急に不安になり、私は車の照明を付けた。

 「……偶然なんですが、実は芳江さんと同じ場所でして」

 口に出してみて、改めてこの気恥ずかしい事実に気付く。私は、少しどもり気味になり、見通しの悪い路地を見つめていた。

 「あら、そうなんですの?」

 私の横顔を、芳江が覗き込む気配がする。

 「面白いですわね、まさか同じアパートなんて」 

 嬉しそうに言う、芳江の強い白粉の匂いが私の頬に押し付けられる。濃厚な女の香りに、たまらず胸が高鳴り、私は板ガラスの向こうへと、不自然に顔を背向けるしかなかった。

 しばらくして、ふと、民家の朧な影の上に、妙な高さの明かりが見えてきた。

 「やっぱり、車だと早いわね」

 その明かりに気が付いてか、いつのまにか頬を詰っていた化粧の匂いが遠のいでいた。身体の緊張がほぐれ、つい声が漏れる。

 「……すると、あれが木馬荘で?」

 確かに、目指している方角にその明かりはあった。しかし、昼間の木馬荘しか知らない私には、その薄明かりだけでは判断がつかない。

 「そう、あれよ、あの明かり」

 芳江は、着物の袖を振って、私の見ていた明かりを指差す。やはり間違い無い。私は目の前に現れた二股の路字路を、明かりの方向へと勢い良くハンドルを切った。

 急勾配の坂道を登るにつれて、段々と建物の輪郭が浮き彫りになって来る。

 周りの平屋から、一つ頭の突き出た四角い影──それはまるで、光る眼の付いた怪物である。その姿に気圧され、ポンコツ車に命一杯悲鳴を上げさせていると、じきに車はのろのろと坂を上り終え、建物の足元へと辿り着いた。

 息も絶え絶えのエンジンを止めてやり、ガラス越しに闇を仰ぐ。木馬荘の外観は、夜になると一層気味悪くなっていたが、それでも近くから見れば、窓から漏れる小さな明かりは、ささやかな温かさを感じさせてくれた。

 芳江は大事そうに酒瓶を抱えながら車を降り、運転席に向かって頭を垂れた。

 「ありがとう御座いました。お礼に、引越しのお手伝いでもと思うのですけど」

 私は、女性に手伝わせる様な真似は出来ないと、その申し出を断り、今度はなかなか引き下がらない彼女を部屋まで送るといって、木馬荘の入り口へと歩き始めた。 

 「この木馬荘には、一人で御住まいで?」

 斜め前を歩く彼女に尋ねると、結い上げた黒髪がぴくりと揺れた。

 「いえ……旦那と、暮らしていますの」

 どこか、咽に物が詰まった様な言い方だった。聞いてはいけない事だったのか。闇に浮かび上がった白いうなじが、やけに細く見えた。

 その内に、押し黙ったまま木馬荘の玄関を跨いだ私達は、廊下を照らす裸電球の下で、互いにぴたりと足を止めた。

 「あら」

 「おや」

 滑稽な声を上げ、芳江と私は顔を見合わせる。見れば、芳江の手には鍵が

握られ、かく言う私も、懐から真新しい鍵を取り出した所だった。

 「もしや、一〇一号室で?」

 私が訪ねると、彼女は小首を傾げ、さも面白そうに眼を細める。

 「では、貴方は一〇二号室?」

 「ははは、その通りです」

 なんという偶然だろうか。こうまで偶然が重なると、もはや笑う以外にない。

 それは芳江も同じだったのだろう、袂で覆た口元から、クスクスと声が漏れていた。

 「まさかお隣だったとは、これは愉快ですね」

 「ええ、本当に」 

 愉快なしゃがれ声と共に、袂の影から赤い唇が覗く。

 「それでは明日、引越し祝いでもお持ちしますわ」

 そういって、彼女は新居の前に立つ私に背を向けた。狭い廊下に、歪な金属音が響く。

 「そんな、お気遣い無く、これからご迷惑お掛けすると思いますし」

 「いえいえ、ご迷惑をお掛けするのは、こちらの方ですわ」

 ドアが開き、その隙間に身体を滑り込ませた彼女は、重なり合った厚い唇を曲げ、私に微笑み掛けた。

 パタンと、扉が閉まる。

 一〇一号室の錆び付いたプレートが私の前に立ちはだかる。見れば、部屋番号の隣には、『宮田』の浮き彫りが、慎ましやかに光っていた。

 木馬荘に引っ越して来てからと言うもの、私はやはり、あの婀娜な笑みの虜になっていたのだろう。

 親切な彼女は、時たま、私に差し入れをしてくれる様になり、いつも夕食残りだと言って、彼女が運んでくる鍋には、偶に豪勢な洋食や、ビフテキなどといった、私の安月給ではとても手が届かない代物が入っていた事もあった。

 しかし、何よりも私が楽しみにしていたのは、洋食でも、ビフテキでも無く、それらが入った鍋を抱え、白粉の匂い濃く、逢引の様にしてやって来る、芳江婦人そのものであったと思う。

 木馬荘にやってきてから一ヶ月余りの間、私は、良き隣人である、芳江夫人とのその様な関係に酷く満足していた。これ以上の進展も、発展も要らない。ただ彼女が、あの熟れた柿の様な唇から、息を吐き、言葉を紡ぎながら、私のくだらないお喋りに付き合ってくれるだけで、私の心歯跳ね上がり。別に話さなくても良い事まで、嬉々として彼女に伝えていた様に思う。

 しかし、木馬荘にやってきてから、一月ほどがたった頃。幸せだと思っていたその日々の中に、私は、ある奇妙な事実が潜んでいる事に気が付いた。それ以来、私はその事ばかりが気になって、芳江の顔を見ても気分が優れず、何をしようにも、チラチラと、その事柄が頭から離れずにいた。

 その奇妙な事柄とは、顔すら見たこと茂無い、芳江の夫の事である。

 不思議な事に、私は一ヶ月の木馬荘での生活を経て、芳江婦人とは幾度も会っていても、その旦那の姿は一度も見たことが無かったのだ。

 彼の名前が、宮田一郎と言うのは、芳江婦人から聞かされていた。しかし、木馬荘は5階建てとはいえ、各階には2部屋ずつしか無い狭いアパートである。はたして、隣人であるはずの男が一月もの間、私に姿を見せる事無く、生活を続けるなど出来る物なのだろうか。

 また、一郎氏がその身を隠して居るのと同じく、妻である芳江の口からも、その夫の話は殆ど聴かされて居ない。もし、その話へ触れようとすれば、彼女はまるで私の言葉が、禁戒を破る呪詛のごとく聞こえたのか、 妙に浮き足立った様子で、それとなく話を別の筋に向かわせようとするのだ。

 一体、一郎氏は何処に居るのだろうか。どうして彼は、私の前に姿を現さないのか。

 私は、まるで恋煩いを起こした、初心な学生のごとく、幾度も幾度も同じ事を考えては、邪な想像を逞しくした。しかし、考えれば考える程、その泥沼は粘土を増し、重い私の体はズブズブと沈んでゆく。そして、ついに私は、もしや一郎氏などは、初めから居なかったのではないか。彼は、芳江が男よけの為に作り出した、架空の存在なのでは無いかと、そんな小説じみた妄想を、真剣に抱くまでになったのである。

 その疑惑が最高潮に達したある日。すっかり芳江婦人に夢中になり、その影に潜む男に嫉妬を重ねていた私は、あろう事か、偶然夕食の差し入れにやってきた彼女に向かって、もし良ければ、旦那の一郎さんに一度ご挨拶がしたいので、この場に彼を連れて来てはくれまいかと、つい口を滑らせてしまったのである。

 芳江は少し狼狽した後、取り繕う様にして、関係の無い話をし始めた。その姿が、一層私の心に暗い影を落としたのは言うまでも無い。

 彼女が浮ついた眼を震わせながら話を終えた後、しばらくの間、気まずい沈黙が流れた。そして、何を言おうか迷っていた私に、芳江は鍋を押し付ける様にして渡すと、強張った面持ちで、コクリと頭を垂れながら、自室に下がって行ってしまった。

 その背中が、いかに小さく、哀れに見えた事か。扉を閉めた途端、溜まりに溜まった自責の念が荒々しい津波となり、私の身体を容赦無く襲い始めた。

 私は、なんて馬鹿な事をしたのだろう。もしかしたら、一郎氏の姿が見えなかったのは、ただの偶然で、私はとんでもない思い違いをしていたのでは無いか。ただ彼女は、夫との間が巧く行っておらず、その話に触れられたく無かったのかもしれない。そればかりか、彼女は行き場の無い寂しさを、差し入れと託けて、私との交流で癒して居たのかもしれないではないか。

 そんな、当たり前の考えにようやく行き着いた頃には、すでに私と彼女の関係は取り返しの付かない物になっている。打ちひしがれ、悶え苦しみながら、私は貰った鍋を開く事無く卓の上に置くと、そのまま寝床に潜り込む。そうして、布団の暗闇の中で、ひたすら自己嫌悪に精を出した後、息苦しくなって顔を出し、茶卓に乗った鍋を見つけては、再び、飛び退く様に顔を埋め、愚かな自分への呪いの文句を、延々と吐き続けたのであった。

 その内に、日が暮れたのであろう。気が付けば部屋の中は、鬱蒼とした暗闇に包まれていた。

 自分を責めるのにも疲れた私は、のそり布団から這い上がると、手探りで電燈の紐を引いた。一瞬、眼の眩む様な太陽が其処に現れたかと思うと、すぐに光は落ち着きを取り戻し、裸電球の、何時も通りの煤けた明かりが、板目の歪んだ天井に揺れていた。

 頭の上で、古ぼけた電球が頼りなげに揺れる。

 それに合わせて、橙色に霞んだ壁や天井の明暗までもが、まるでブランコの様に、右へ、左へと、壁の間を虚ろに行き交っていた。

 その光景を、不安にも似た、妙な感覚を抱きながら見入っていると、しばらくして、私の耳元に微かな物音が響いた。

 はっとして、後ろを振り返る。そこには、木馬荘の内側、隣室との境である、橙色の木壁があるばかり。

 この壁の向こうに、芳江が居る。そう思うと、もしや、今の物音も彼女では無いのかと、引き寄せられる様にして、まだ虚に揺らめいている木壁へと近づいた。

 再び、私を誘う様にして、目の前の壁から音が漏れる。

 ソロリと、畳の上に足を忍ばせ、壁の前までやって来た私は、その場に屈み込む様にして、そっと壁に耳を押し当てた。冷え切った壁面の硬さが耳たぶに伝わった刹那、私の心臓が肋骨を押しのけ、早鐘の様に打ち始める。その鼓動を沈める様にして、息を殺し、耳を澄ますと、微かながらも、壁の中から人の声が聞こえ始めたのである。

 「……あんたのせい……口も……くせに……」

 無視の羽音程であったが、酒に焼けたその声は、間違えなく芳江夫人のものであった。しかし、何か様子がおかしい。私はその声を拾おうと、さらに強く耳をあてがった。

 「…そんな体で……歩けもしないのに……なんだい?その眼は……ほら、こうして……」

 体?──歩けない?いったい、何の事であろうか。その声は、まだ見たこともない、あの一郎氏に向かって喋りかけているのだろうか。私は、血が滲む程に強く押し付けた耳たぶから、感じるはずの痛みすら忘れ、じわりじわりと迫り来る、ある恐ろしい予感に駆られながら、その言葉の意味を考えずには居られなかった。

 「ああああああああ」

 突然、壁の中から不気味な奇声が響いた。

 それは、物狂いの男が上げる、あの意味不明な叫び声である。声を発した人物は、まるで具合の悪いラジオの様に、壊れた音を延々と発し続けた。

 「……どうだい……ええ…この………」

 乱れた息遣いまで聞こえそうな、油ぎった中年女の声が響き、奇声が止む。

 すると、何かを叩く様な、ドスンという鈍い音が響いた後、再び得体の知れない男が、まるで赤ん坊のごとく、言葉にならぬ悲鳴を上げた。

 しかし、それで終わりではない。繰り返し、芳江の罵声が飛び、殴りつける音。続く怪人が、これでもかと奇声を上げ、次第にその音は熱を帯び、激しさを増す。

 ヒステリックな嬌声。鈍音。何事かを訴える様な、哀れな絶叫。

 それらが混沌と渦巻く、気の触れた混声合唱が、遥か彼方の絶頂を目指して、キリキリと高まって行く。壁に耳を当て、震え上がる私の肌の上を、冷たい油汗が蛇の様に這い回っていた。

 芳江が、あの美しい女が、今この瞬間、間違いなく何者かを折檻していた。しかも、その相手はきっとまともな人間ではないのだろう。

 私は、それを車椅子に座り、夢遊病者の様な目をして、何も無い空中をもがく様に掴む男の姿を想像した。そうして、はだけた着流しから、汗ばんだ肩を顕にする女が、髪を振り乱し、病人を殴りつける姿が眼に浮かぶ。

 その手に握られているのは、何時か彼女が抱えていた、飴色の太い酒瓶。それを振り下ろす度に、病人は悲鳴とも付かぬ声を上げながら、ガタガタと車椅子を振るわせる。その、何という醜くさ、忌わしさであろうか。そうして、歯の根が合わなくなり、振るえが止まらなくなっても、私は依然として、壁から耳を離せないでいたが、途端に、今自分が耳を押し当てている物が、まるで奇形の熊の様な、醜い獣のぶくぶくと肥えた腹の様に思えて、私は咄嗟に其処から耳を離した。

 しかし、額に垂れた汗を拭き、眼を凝らすと、目の前には、やはりただの壁。

まだ、電球が揺れているのだろうか。視線を降ろすと、足の爪先から伸びた黒い影が、奇妙な伸縮を繰り返しながら、橙色に染まった畳の上で蠢いていた。

 

 翌朝。まだ頭の中で、昨夜の音が鳴り響くのを無視しながら、仕事に向かうため、玄関のドアを押し開けた時である。

 朝日が緩やかに差し込む木馬荘の入り口に、黒い人影が見えた。芳江だ。何時もの着流しに、先を結った長い髪、すぐに彼女だと気づいた。しかし、その下半身の輪郭が、少しばかり大きい。なんだろうと、玄関を開け放ったまま、彼女の背中を見つめていると、やがて木馬荘の玄関から外に出て、芳江がスッと横に曲がった刹那、私は悲鳴を上げそうになり、思わず口元を手で覆った。

 それは、車椅子に座った、病人の姿であった。

 狂人の様に髪を振り乱し、濁った両目をあらぬ方向に向ける男が、まるで餌を求める金魚の様に、意味も無く口元を動かしていた。

 芳江は、物欝気な表情で、黙々と車椅子を押している。しばらしくして彼女らは、アパートの前の坂道へと姿を消し、私はただ竦み上がり、その場に立ち尽くしていたのである。

 それからと言うもの、時折、あの壁からは、哀れな不具者の、痛たましい絶叫が聞こえる様になった。

 怪鳥の鳴声のごとく、奇妙な異音が響き渡る度に、私は布団に潜り、耳を塞いだ。聞こえるはずの無い、芳江の荒い息遣いや、あの恐ろしい鈍器の音までもが、薄い鼓膜を振るわせる気がした。

 恐らく、その奇声を上げる人物と、芳江が押していた車椅子の男は同一人物であろう。芳江の部屋も私の部屋と同じ間取りであろうから、もう一人別の人間が其処に住んでいるとは考え憎かった。

 ならば、あの不具者こそが、かの芳江の夫である一郎氏ということになる。すると、彼が一度も私の前に姿を現さなかった理由も納得がいった。彼は、姿を隠していた訳では無い。自らの力で、部屋を出ることが出来なかったのである。

 また芳江も、彼を外に出す事を忌み嫌ったのだろう。あれは、どこか気位の高い女である。不具者を人目にさらすのは愚か、彼を旦那と呼ぶのすら嫌悪していたに違い。

 なら、何故彼女は結婚などしたのだろうか。それについて、私は想像でしか語れないのだが、恐らくあの男は、少なくとも芳江と結婚するまでは健全な体の持ち主であり、それから何かしらの病気か事故に会って、ああも虚ろな眼をするに為ったのでは無いだろうか。

 そして芳江も、始めは彼に対して、普通の人間が病人に接するのと同じ様に、献身的な介護をしたかもしれない。もしかすれば、彼女は心を決め、ずっとこの哀れな男を愛し続けようと、麗しくも、硬く心に決めていたのかも知れない。

 しかし、月日が立つにつれ、彼女が気の触れた病人に接する毎日が、どの様に辛い地獄であったか。そこに、彼女の決心が揺らぐに相応しい、底なしの苦しみが待ち受けて居たのかは、想像するに難くない。食事を取るのも、しゃべるのも、用を足すのも間々ならず、何をしようが喚く病人。それを、幾ら世話をした所で良くなる訳でも無い。月日と共に、彼女の心は磨り切れ、その形を歪に崩していったのであろう。

 そうして、ついに芳江は、その病人を、人間として見る事を止めてしまったのでは無いだろうか。

 悪魔で道具として、自分自身の快楽を満たす玩具として、不具者を扱う。殴りつけ、泣き喚こうとも、人形の様に虚ろな眼をする病人に安堵する。それにより芳江は、地獄から逃げ出そうとしたのでは無いか。そこが、さらに深い地獄だと、自分がすでに、鬼に成り果てたとも知らずに。

 そんな彼女は、あの日からしばらくして、何時もと変わらぬ調子で、私の部屋に差し入れを運だ。

 玄関を開ける私の手が、びっしょりと汗で滲んだ。廊下には、何時もの鍋を手に微笑む女。辺りには、生臭い化粧の匂いが漂っていた。

 この脂ぎった中年女が、服が乱れるのも気にせず、嬉々として哀れな病人を苛めている。そう思うと、嫌な女の生臭い匂いと、陰惨な想像とがどす黒く混じり、すえた胃液が咽元に押し上げられる。そうして、歪んだ視界に見える、彼女の婀娜な微笑みにすら、私はおぞましい寒気を覚えずにいられなかった。 

 次の日から、私は仕事が終わると、飲み屋に行ったり、友人の家に行ったりと、なるべく家に篭らない様に努めた。そうする事で、あの出来事を忘れると信じ、また、芳江の姿すら、いつか消えて無くなると思っていたのである。

 幸い、夜遅くに帰る様になってから、壁から聞こえる物音も減り、芳江からの差し入れも殆ど無くなった。時折、彼女がやって来ても、私は居留守を使った。たとえ受け取ったとしても、とてもその鍋に口を付ける事などできず、止むを得ず流しに捨てた。

 その内に、壁から聞こえたあの奇声も途切れた。

 家に居る時間が減ったからか。それとも、不具者を甚振るのに飽きてしまったのか。その答えが解ったのは、再び木馬荘の玄関先で、芳江が車椅子を押しているのに出会った時である。

 こちらに背を向けていた芳江は気付かなかったろうが、車椅子に座る病人は首を捻り、明らかに私を見ていた。その眼の、なんと哀れだった事か。彼は血走った眼を見開き、私に向かって口をもごつかせていた。

 言葉も聞こえず、口の動きも虚ろで、何を言っていたのかはっきりと解らなかったが、私にはそれが、必死に助けを求めている様に思えて、つい顔を俯けてしまった。

 折檻は、まだ続いていたのだろう。芳江のサディズムは、決して止まる事は無く、あの不具者を玩具にし続けていた。

 しかし、私には何も出来無い。ただの隣人であり、ひ弱な青年である私になど、あの不具者と同じ様に、ただ闇の中で震える事しか出来無い、人形同然の男だったのである。

 そして、貧弱な私の精神は、さらなる逃避を求め、暗闇を彷徨った。

 私は結局、何度目になるか解らない引越しを決意し、その旨を大家に伝えた後、退去予定日までの間を、友人宅を泊まり歩いたり、偶に部屋に居る時は、必ずラジオのボリュームを上げながら過ごしていた。

 その頃には、もう壁からは何の音もしなくなっていたと思う。殆ど家によりつかなかったので、はっきりとは言えないのだが、私の脳裏からは、あの奇声も、芳江の姿も、まるで夢の様に思えていた。

 まだ、あの美しい芳江は折檻を続けているのか。あの病人は、今頃どうしているのか。

 そんな事を、時折思いながら月日を過ごし、ついに引越しを明日に迎えた夜の事。眠る私の耳元を、突如として沸き起こった、不気味な奇声が劈いた。

 夢虚ろに、私は布団から這い出る。不思議と恐怖は無かった。ああ、まだあの男は鳴いていたのかと、そんな風にまだ自分が、夢の延長線に居る様にぼんやりと思いながら、黒々とした壁に向かって、畳の上を這った。

 壁の前に着くと、あの時と同じ様に、壁に耳をあてがう。その夜の壁は、まるで血が通っているかの様に、妙に生暖かかった。

 「……ほら、どうした……ちゃんと…使って……食べて見なさいよ……」

 懐かしい芳江の声がする。そして、微かに聞こえる、不具者のくぐもった嗚咽。

 「ねぇ?ナイフも使えないの?……ほら、食べてみなさいよ…この……が」

 反論する事すらままならぬ、哀れな夫を苛め、悦に浸かった嬌声。男はただ、壊れた音を意味もなく発し続けていた。

 「ええ?……喋ってみなさいよ……言いたい事があるなら、はっきり……」

 と、何かを言いかけた時、芳江の声がぴたりと止まった。張り詰めた静寂が辺りを包み、何時の間にか高鳴っていた脈の音だけが、耳の裏側から響いて五月蝿かった。

 「───ギャアアアアアア」

 次の瞬間、甲高い悲鳴が聞こえた。

 だが、不具者の声ではない。それはまるで、奈落の底から響いて来る様な、女の断末魔の叫び。虚ろだった私の思考が、一気に血の色に彩られた。

 咄嗟に、私は壁を離れ、玄関へと急いだ。絵にも為らぬ光景が頭の中を駆け巡り、玄関を抜けると、すぐ其処にある一〇一号室の扉を叩いた。

 「芳江さん、どうしたんですか、芳江さん」

 しかし、返事は無い。慌ててドアノブに力を込めると、それは何の抵抗も無く回り、私は夢中で扉を開け放った。

 ──奥の部屋に、ぼんやりと、煤けた電燈が灯っていた。

 手前側の部屋が暗いので、闇の奥にぽっかりと浮かんだその光景は、まるで照らされた舞台の様である。

 その舞台の真ん中に、一台のテーブルが見えた。食事の最中であったのだろう。卓の上には、一枚の皿があり、焼いた肉の様な、焦げ茶色の塊が転がっていた。

 そのテーブルの横に、車椅子の男が居た。男は細かく痙攣する腕で、必死に、肉汁のこびり付いたナイフを持ちながら、こちらに顔を向けた。虚ろな眼が、じっと私を見つめる。視線を逸らすと、背の高い椅子がテーブルの手前にあり。その上から、背にも垂れた芳江の黒髪が覗いていた。

 その姿を見た途端、気が付けば私は、何も言わずに扉を閉めていた。

 なんだ、何も無かったでは無いか。気が動転していたのもあり、芳江に何も言わず隣室を覗いたのは失礼だと思ったが、何事も無ければそれで良かった。羞恥と安堵が入り混じった、嫌な溜息が漏らしながら、私は自室に戻った。そうして再びあの壁を見ながら、不具者の折檻の音が止んだのを確かめた。

 例え、あの男が芳江に虐待されていようとも、明日には自分はこの木馬荘を去る。彼には悪いが、もう関係の無い事なのだと、私は自分に言い聞かせ、再び布団の中にもぐりこみ、暗い天井を仰いだ。

 しかし、そうして眠りに付こうとする内に、私は先程の部屋の様子を思い出し、ある恐ろしい想像が頭をもたげ、頭から血の気が引くのを感じていた。あの時見た芳江夫人は、本当に生きていたのであろうか。あの断末魔の悲鳴は本物であって、椅子に座っている様に見えた彼女は、すでに無残な死体であったのでは無いか。思い返せば、壁から聞こえたあの会話は、不具者に無理やりナイフを持たせて、肉を切らせていたのだろう。その遣り取りの合間に、あの不具者が、ついに数々の苛めに耐えかね、偶然にも彼女を刺し殺してしまわないと、誰が言い切れるだろう。では、あの男が握っていたナイフの、あの赤黒い液は何だろうか。もしやあれは、芳江夫人の体から漏れた、真新しい血では無かったか。

 

 気が付くと、ふと、遠くから男の笑い声がした。

 声のした方に顔を向けると、あの壁から、楽しげな不具者の声が漏れている。

 その壊れた声は、まるで止むことを知らない様に、ケタケタと、気味の悪い高笑いを上げた。

それに釣られる様にして、黒々とした壁までもが、まるで笑う様にして、微かに震えている気がした。

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