もこ2

なぜこんな事になったのか?

今更ながら思い返してみるが、上手い答えは思いつかない。ならばなぜ、私がこんな人間になったのかを考えてみると、答えはするりと出てきた。

そう、私がこうなったのは何のせいでもない、ただ私のせいだ。

幼いころを思い返せば、それはすぐに解った。記憶の奥底で起き上がるのは、内気で、めったに外で遊ばない子供。近所の活発な子達の様に冒険じみた遊びは遠い世界で、そんな少年達の姿を窓の外に見た後。薄暗い家の中で本を読み。荒唐無稽な物語の世界に耽る後ろ姿。

 その少年は、結局の所、そのまま大人になってしまったのだろう。

 大学を出て、初めは小さな工場に勤めはじめた。

理由は人づきあいが苦手で、まともな職につけなかったせいだが、結局は其処もすぐに辞めてしまった。

その後は、学生時代からの本好きが祟り、趣味で続けていた物書きのお陰で、なんとか文章を売りながら細々と暮らしている。

 そして、そのまま十数年の間、私は同じ場所で、同じ街で、同じ朝日と、同じ夕日を見て眠った。

それが、私の人生の一全て。

青春を忘れた男の、哀れな人生である。

 その悩みを打ち明けると、人は皆「贅沢だ」とか「おまえは幸せだ」と、口を揃えて言う。

 確かに、私は幸せなのかもしれない。平坦とは、即ち安泰な人生である。妻や子供がいないと言えど、多くも無いが、決して少なく無い給料を得てきた。

それに、この一生の中で、一度たりとも大逸れた事や、冒険めいた事もした事が無い代わりに、当然ながら犯罪暦も無いし、人に迷惑を掛ける様な悪さもした事が無い。

 とどのつまり、私は平凡なのである。人見知りの激しい内気で、無口な男。それが私だ。

 ならば、そんな私を幸福だという人間は、一体私の何が幸福だというのかが解らない。

 裕福さ?

いいや、私には有り余らぬ富など一文も無い。

 それなら愛?

いいや、妻も恋人も居ない私には、それは小説の中だけの話しである

 ならば、私はやはり幸福では無いのだろうか? 

私は悩んだ。突っ伏し、唸りながら、頭蓋を叩き、机に突っ伏した。けれど、私の頭には何も浮かばない。顔を伏せた机を見ると、手垢やインクに汚れた卓上に私の顔が写り込んでいた。その哀れで、同情を呼ばずにはいられない醜い顔は、やはり私を見て嘆いた。

 そして、私は旅に出た。 

周りの人間には、身内が病に伏せたと嘘を付き、その日の内に夜行列車に飛び乗った。

 走る列車の中で、私はコートに覆われた膝に顔を埋め、眠る振りをして夜を過ごした。

 私は、一体何をしているのだろうか?

 嘘を付き、仕事を休んでまで何故旅に出ねばならないのかと、後悔の念ばかりが埋めた膝の間に漏る。

 しかし、それでも列車は夜を走った。

 夜が明け、朝日が昇った。

そうして一日中走った後再び夜が訪れ、列車はようやくどこかの駅に止まった。

 そこで、私の記憶は途切れている。

 恐らく、一睡もせずに夜を明かしたせいだ。虚ろにその駅を彷徨ったり、列車に乗ったり、降りたという記憶はあるのだが、その駅がどこで、どんな列車に乗ったのかまでははっきりと思い出せないのである。

 斯くして、旅人になった私はこの駅に流れ着いた。

 

 煙に歪む景色は酷く虚ろで、私はその場に腰を落とした。

呆然と虚空を見上げると、晴れた空が厭に青くて気分が悪くなる。

 ここは、誰も居ない駅。

そして、誰も居ない場所。

そう、私は一人なのだ。途方も無く、孤独で寂しい一人の迷い子──

 ───その時、私は微かな汽笛の音を聞いた。

 慌てて立ち上がり線路の先を見る。すると、ゆるい曲線を描いて山間に消えてゆく線路の向こうから、白い煙いが尾を引くのが見えた。

 もう一度、汽笛が鳴った。

 今度ははっきりと、甲高い音色が空気を震わす。

 遠い線路の上に、黒い鉄の塊が見えた。その先から伸びた鉄柱からは、とめどない白煙が溢れている。

 あれは、汽車である。

 見れば、黒塗りの蒸気機関車は唸りながら私の立つ駅へと迫っている。

 やがて、汽車はスピードを緩めた。甲高い金属音を響かせ、その巨体は立ち竦む私の前で止まった。

 その機関車は随分古い物だった。黒い鍍金がはげ、そこから覗く錆の色はまるで農夫の如く褪せ疲れている。

 私が立ち竦んでいると、突然運手席の扉が開いた。鉄のドアの暗闇から。やけに古めかしい制服姿の男がホームに降り立ち、陽気な足取りで私へと歩み寄った。

 「どうも、お客様」

 男は口元に笑みを湛えながら、小さく会釈をした。

 満面の笑み。

 釣られる様にして、私も会釈を返す。すると、男は手を伸ばし足元に転がっていた旅行鞄を手にとり、腰に手を回す様にして私の体を誘った。

 「今日はとても良い日でございますよ、天気も良いし、風もまた良い」

 お喋りな車掌は私の体を支える様に歩いた。進む先には、機関車に繋がれた客車が二両並んでいる。これもまた古いものなのだろう。褪せた焦げ茶の塗装は所々剥げ落ち、そこから覗く鉄の色は、機関部と同様に深い錆が浮いている。

 「さぁさぁお乗りください。今日は貴方が始めてのご乗車になりますので、中は貸切の様なものですよ」

 と、車掌は勝手に客車の扉を開く。何かを言おうとするのだが、一々言葉にならない私を無視し、車掌は私の背押す様に客車へと乗せた。

 見回すと、客車の中は随分と薄暗い。恐らく、窓が小さいせいであろう。真ん中の通路をあけて、両側に並んだ椅子たちはみな恨めしげに私を見ている様だった。

 「さぁさぁ、どうぞお好きな席へ」と、後ろでは車掌がせかす様に声を上げている。

 「あの、この列車は何処へ?」

 問いかけた矢先、車掌は私の胸に鞄を押し付け、満面の笑みを浮かべた。

 「ああ、もう出発しなければなりません。ああ、それと車内は禁煙ですのでご注意を」と一息に言葉を並べ立てたあと、目の前の扉が勢い良く閉り、車掌は窓の向こうで一礼し、消えた。

 何なんだ、この列車は?

 憮然としながら、私は抱いた鞄を手に取り、もう一度客車の中を見回した。影の多い椅子の群れの中に、やはり人影は見当たらない。どうやら本当に、この列車に乗っているのは自分だけの様である。

 その時、突然汽笛が響いた。

 何事かと足を踏み出そうとした途端、急に地面が揺れた。私の体はバランスを崩し、床に顔面を打ち付ける手前で、辛うじて近くの座席に捕まる。

 一体、何が起きたのか。

 ふらつく足取りで体を起こし、私は窓の外を見た。

 すると、ガラス越しに見える風景が、ゆっくりと動いた。

いや、動いているのは風景では無い、列車だ。この列車がすでに動き始めてしまっている。

 その事に気が付いた私は、よろめきながらドアへと走った。曇った窓へと顔を貼り付けると、先ほどまで居たホームはすでに列車の後方に過ぎ去り、どんどんと小さくなっていく。

 振り返り、私はその場に腰を下ろした。

旅行鞄は音を立て、床の上に転がった。

 成す術は無かった。

ふいに、途方も無い絶望が私を襲い、隙間だらけの体を駆け巡る。鞄を手にし、私はよろけながら立ち上がった。揺れる車内を、椅子に掴まりながら進み、その中ほどの席に倒れこむ様にして座った。

 見上げた天井は、煙草も吸っていないのに、何故か薄紫に霞んでいる。瞼を閉ざした。闇の中で、未だ紫煙の影が揺れている。どうせ何処かへ行きつくのだと、半ば諦め気味に私は一人で呟いてみたが、その声はすぐに、鳴り響く車輪の音に揉まれ、消えた。

   2

 カタァン──カタァン──カタァン──カタァン──カタァン──カタァン───

 と、聞き慣れたその音は、眠りから覚めかけた私の耳を弄んだ。

 気がつくと、瞼の裏が赤い色を帯びている。

 もう、トンネルは過ぎたのだろうか。

 薄っすらと瞼を明けると、目の前に浅黒い座席が見えた。どうや、私はまだ列車に乗っているらしい。

 窓に目をやると、森はすでに抜け、遠く見える山のふもとから広がる。視線を下げる。流れる稲穂の群れが、波の様に流れている。

 一体、ここは何処なのだろうかと見える景色のあちこちを見回すが、それらしき看板や表記などはながれて来ない。

 いっそのこと、車掌に聞いてみようとも思ったが、どうにも気が進まなかった。

 恐らく、生来の内気な性格の為だろう。

そう考えると、自分の頬が自然と釣り上がっているのがわかった。

 「───ようやくお目覚めか」

 突然、声が響いた。

 咄嗟に窓から顔を離し、私は前を見た。

その瞬間、私の瞼は瞬きを忘れた。痛みすら覚える程見開かれた目の先で、それは随分とゆったりとした調子で、涼やかな声を発した。

 「やあ、調子はどうだい?」

 目の前の椅子に座る声の主は人間では無かった。

 向かい合う座席の上。

そこに、いつの間にか一匹の猫が座っている。

 その猫の体は、まばらな茶色の長い毛で覆われていた。毛で膨れ上がった胸から腹の部分に掛けては白く、猫のわりには短い前足もまた白く、まるで手袋の様である。

 顔を見ると、長い毛の中に埋もれる様に、光る青い相貌があった。

まるで、獲物を監察する様な目。

口を空けたまま、呆然と私が見詰める中、猫の小さな口元が微かに動く気配がした。

「随分と長い昼寝だったね」

また、声がした。

慌てて辺りを見回すが、やはり誰も居ない。

「おいおい、何処を見てるんだい?」

また、声が聞こえた。

今度は、間違いなく私の正面からである。

怯えながら、戦く私は振り返った。

猫は一つ、大きな欠伸をし、毛むくじゃらの体を震わせる。

 「ああ、まったく失礼人間だな」と、猫は呆れた風に、小さく鼻を鳴らす。

 「君はさっきから私が話しかけているのを、何故無視するんだい」

 「え?いや・・・あの・・・」

 なんと答えて良いか解らず、発した言葉は口の中に籠った。猫は目を吊り上げ、私から目を背けると、窓の外を見ながら不機嫌そうに尻尾を振った。

 「まったく人間というのは、どうにも礼儀というものが解っていない生き物だよ。こうして相席している相手の話を、まるで聞いていないふりをするなんて、旅人然の礼儀というものがまるで解っていない」

 どうやら、本当にこの猫が喋っているらしい。喋り終わると、猫は侮蔑ともつかぬ視線を私に投げかけた。

 私は混乱していた。目の前で何が起きているのか、まったく理解出来なかったからである。

この猫は何処から現れたのか、何故、猫が喋るのか───うねる思考の渦が私の頭蓋から溢れ、次第に自分の体が遥か彼方へと消え入りそうな気がして、強く両肩を抱いた。

 「──おや、怯えているのかい?」

 猫は悪戯な調子で小首を傾げ、うつむく私の顔を見た。

 ───これは、夢なのだろうか。

列車の揺れに身を任せ、眠りの淵についたまま、私はまだ現に戻れずにいうのだろうか?ならば、この震えはなんだ?この得体の知れない恐怖はなんだ?

 私は、肩を抱いたままゆっくりと顔を上げた。その先では、茶色い猫が一匹、澄ました顔で私を見ている。

 「───これは、夢なのか?」

 とても、自分のものとは思えぬ声が私の喉から洩れた。

それを切欠に、私の頭蓋を膨らまし、膨張し続けていた言葉は堰を切り、溢れた。

 「いったい・・・どうしてこうなった・・・ここは何処だ?この列車は何処へ行く?お前は何処から来て、何故喋るんだ!!」

 気がつくと、私は立ち上がっていた。荒い息を吐き、拳を握りしめていた。

 しかし、猫はまったく動じていない。最前からの澄ました顔を一つも崩さず、眠そうに目をはためかせている。

 「・・・・・・まったく、五月蝿い人間だ」

 前足で顔を撫で、まずは座れと、射竦める様に丸い目を光らせる。

 「さて、人間。お前の質問は多いが、どうせ僕も暇だ、ひとつ答えてやるとしよう」

 辛うじて椅子に座れたものの、気が動転し、まともに前を見れなかった。

そんな私を尻目に、猫はまるで人間の様に、澄ました調子で語りかけた。

 「まず、君はこれが夢かと聞いたが、それは私には何とも言えない。それは、それを決めるのは君にしか出来ないからだ。もしも夢の中の住人が、君に『これは夢なのだよ』と言った所で、君は信じるだろうか?そして、その逆もまたしかり。つまり、私には何も答えられない」

 私は、黙って猫の言葉を聞いていた。

列車の音が、少しだけリズムを崩した様な気がした。

 「次に、君がどうしてこうなったのか?と言っていたが、それも私にも分からない。何せ、私が君を見たのは、この列車に乗ってからだからね、知る訳が無い」

 ──次第に、視界がはっきりしていくのが分かった。

 紫煙にまみれた視野の中に、茶色い影が浮かび上がった。

 「・・・君は・・・誰だ?」

 掠れた声が漏れた。猫は喋るのを止め、少しだけ驚いた様に目を開く。

 「僕かい?──ああ、猫で良い、特に名前は無いからな」

 「名前が、無いのかい?」

 「ああ、特に必要ない。昔はあったみたいだけど、今じゃもう忘れたさ」と、猫は鼻を鳴らし、にべも無く私を一瞥する。

 どうやら、それがこの猫の不快の象徴らしい。何かを言おうとする口を無理に閉ざし、私は黙った。

 「・・・よろしい、ではこの列車が何処に行くのかについてだが、それも私は知らない。この列車に乗ったのは偶然だし、別に何処に着こうが構わないと思っている。だから、此処が何処 か?という質問にも答えられない、何処に行くのかもわからないのだからね」

 てきぱきと、事務的な口調で言葉を終えると、猫は一つ大きな欠伸をする。

 「・・・さて、僕はなるべくわかり易く、正直に現状を話したが、それで君の混乱は解けたかな?」

 しかし、今だに私の頭は混乱していた。確かに意識ははっきりとしたのだろう、目の前に漂っていた紫煙は消え、目の煤けた椅子も、その上に座る毛むくじゃらの猫の姿もはっきりと見える。けれど、かえってそれが一層、私の頭に眩暈を覚えさせる。

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