もこ3

「・・・君は、何故喋れるんだい?」

 すると、猫はくすりと意地悪く笑い、私の目を覗き込んだ。

 「はは、その質問に答えるのを忘れていたね。それと、僕がどうして列車にのっているか?だったかな?」

 しかし、奇妙な猫はそこで言葉を止めた。

 「けれどそれは、また後ほどにしよう。今度は、君が君の事を話す番だ」

 「私の・・・事?」

 そう聞き返すと、「何、ただ早く君の話が聞きたくてね」と、猫は尻尾を振った。

 確かに変わった猫である。

 人間の様に喋るし、説教もする。おまけに列車に乗って旅をするなんて、きっと化物類に違い無い。

 しかし、驚き、恐れはしても、私は何故か不思議とこの猫を嫌う事は無かった。

 私は口を開いた。 

 そうして私の事を話そうと、言葉を吐き出そうとした。

 しかし、どういう訳か、空けた口からは何も出てこなかった。

 思い出せないのである。

 私が誰なのか、どうして此処に来たのか・・・・・何時もなら当たり前に、直ぐそこにあったものが、まるで魔法の様に脳裏の闇から消えていた。

 ───何故だ、何故何も思い浮かばない?

 混乱していた。私は何者であろうか。私は何故ここに居るのだろうか?そう考える程、脳裏には見知らぬ霧が立ち込めた。心の内で嘆く度に、残り僅かな記憶達が次々と霧の中へと吸いこまれて行った。

 「私は・・・私は・・・」

 気が付くと、乾いた口からは、うわ言めいた台詞ばかりが漏れていた。

 何も、わからなかった。

 疲労のせいか──それとも、この喋る猫を前にしたからなのか。私の視界は再び歪み、どうにもならぬ心苦しさの中で私は溺れてしまいそうだった。

 「──おや、まただんまりかい?」

 頭の上から、悪戯な声が響いた。

 「───ふん、どうやら君は、やはりそういう人間だったか」と、あの鼻を鳴らす音が聞こえる。

 「なら君に問おう。ここは果たして、君が忌み嫌う現実かい?いいや、違う。夢?それも違う。夢と現、その間がこの列車であり、僕であり、君もすでに、その住人になっているんだよ」

 夢と、現の間───

 その言葉に突き動かされ、私は顔を上げた。

 「ここは、やはり現実では無いのか?」

 その問いに、猫は冷淡な口調で答える。

 「ああ、違うとも。ここは現実では無い、そしてまた、夢でも無い」

 ───なら、ここは何処なんだ?

 息を吐き、猫は嗤った。

 猫では無い──まるで、遊女の如き婀娜な微笑み───

 途端に、得体の知れぬ恐ろしさが私の背筋を嬲った。ブルリと体が震え、脂の様な冷たい汗が頬を伝った。

 「ここはね──」

 と、猫は口元を隠し、ケタケタと声を漏らす。

 「ここはね、普通人間は乗れない。だから、君が乗ったのが何かの間違いだと思っていたが、どうやら、それは違った様だ」

 「・・・違う?」

 「ああ、君はどうやら、この列車のお気に入りみたいだ」

 猫はそこで言葉を区切ると、堪えきれなくなった様に、また、下品な笑い声を立てた。

 「──いやいや、すまん。この列車に乗って随分と経つのに、何もわかって居なかったとはね」

 「何も解っていないって・・・いったい、どういう意味だ?」

 まぁ落ち着けよ、人間──と、猫は咳払いをし、白い前足で私を制す。

 「いいかい?この列車が乗せる人間はただ一つ、迷っている人間だ──それも、ただ道に迷っているだとかじゃなく、どこに行くか迷っている人間を乗せる。つまり、行き先の無い人間 さ」

 「行き先の無いって・・・私には、ちゃんと帰る家がある」

 「それが、何処なのか思い出せるかい?」

 「・・・・・・・・・・」

 「そう、思い出せない。何故かって、この列車が食ったのさ。行き先の無い旅人を乗せて、その人間の記憶を奪う・・・・・・いや、性格には帰る場所を奪うと言ったほうが正しい。故郷だと か、やっていた仕事だとか、自分が何者であるかを思い出せる様な記憶は、全てこの列車に食われてしまうのさ」

 私は、その呪術めいた猫の台詞を聞く内に、次第に体の自由が利かなくなるのを感じていた。

 そうして、私の座る椅子が、この窓が、この薄暗い客車が──まるで、怪物の胃袋の中であるかの様に、どろりと、卑猥に蠢いたのを見て、私は飛び退く様に椅子から立ち上がった。

 「・・・おちつけ、人間」

 猫は勤めて冷静な口調で言った。しかし、私の震えは止まらない。止まらぬばかりか、揺れ始めた体は寒さを覚え、私は自身の体を覆うように抱いて叫んだ。

 「私はどうなる!このままこの列車に、何もかも食われて消えるのか!?」

 恐ろしかった。必死に体を抑えなければ、まるで自分がきえてしまう気すらした。

 体を抱え、視線の定まらぬ私を見ながら、猫はまた鼻を鳴らす。

 「ふん、なにを怯える事がある」

 「なにをって・・・記憶が消えるんだぞ!?自分が何者か忘れてしまうんだぞ?」

 私が叫ぶと、訝しげに猫は目を細める。

 「では、お前は何故この列車に乗っている?」

 何かを言い返そうとしたが、私は言葉に詰まった。

 私は何故、この列車に乗ったのか──

 「───行き先が、無かったから?」

 「そう、お前には行き先が無い。なら、なぜ旅にでた?行く充ての無い旅に出て、何処で、何をするつもりだった?──いくらお前が記憶を無くそうとも、その意味ぐらいは解るだろう」

 その言葉を聞き終わると、ついに、私は言葉を失った。

 いつの間にか震えは止まり、代わりに襲われた気だるさに身を任せ、椅子に身を沈めた。

 記憶を無くし、私が何者であったのかを忘れてもなお、私には解る事がある。

 ──そう。私にはきっと、初めから何も無かったのだ。

 行き先も無い旅に出るという事。その意味はつまり『逃避』に他ならない。

 恐らく、私は逃げたのだ。曖昧模糊とした記憶の片隅に、未だ残る感情を掻き集めても、やはりそこには悲しみの色しか見当たらない。

 だから、私は旅に出た──旅という、非現実的な行為を行い、私は曖昧な夢の世界へと逃げ出したつもりだったのである。

 しかし、私はその狭間を彷徨い、朦朧と道に迷ったあげく、この悪夢の様な世界に閉じ込められた。

 「──この列車は、完全なる旅人を作る機械の様なものだ」

 呆然と虚空を眺めていると、哀れみを含んだ猫の声が密やかに響いた。

 「旅人というのは、何処かを目指すものも居れば、何かを手に入れようとする者もいる・・・・・・しかし、それは旅人というには、少しばかり不完全だと思わないか?なにせ、彼らには終わりがある。目的地に着いたとき、目的のものを得たとき、彼らの中ではすでに旅は終わってしまう・・・・・・だからこそ、この列車は生まれたのさ」

 「───完全なる、旅人?」

 「ああ、永遠に終わらぬ流浪に身を任す者・・・死して屍が朽ち果てるまで、どこまでも、どこまでも流れ続ける者」

 「・・・・・・それで、記憶を奪うのか?」

 「この列車は、その為に人間の拠り所を無くすのさ。それには、迷っている人間が必要だ。行くあても無く、流浪の淵に立つ人間・・・そいつを引きずりこんで、曖昧な心を食い、人を『完全なる旅人』に変える」

 「・・・そんな事をして、誰もこの列車の存在に気が付かないのか?」

 「いや、気が付いてはいるさ・・・ただ誰も、この列車を探そうとしない」

 「どうして?」

 「この列車に食われる様な人間は、誰しもが現実から逃げ出した奴らだからさ。そして記憶を無くして、そいつらは初めは嘆くが、直ぐに思う・・・ああ、これで過去の自分は消えてしまい、ついに自分は夢の中へと逃げ込めたのだ…とね」

 私は椅子にも垂れ、手すりを撫でた。

 撫でた手すりの感触は暖かく、まるで生き物の如く暖かい。

 ───記憶が無くなるとは、そういう事なのか。

 私は力無く腕を伸ばした。その手の平を、手摺が優しく包み込んだ気配がした。

 「お前が会った車掌も、列車の一部の様なものだ。この列車に、人間を引き擦り込む役目をしている」

 「・・・あいつは、人間なのか?」

 虚ろに答えると、猫は知らぬよと言う風に、後ろ足で頭を掻いた。

 「さぁね・・・けど、生きている匂いはもうしない」

どうりで、やけに古めかしい制服のはずだった。

きっと、あの若い車掌は年も取らず、延々とこの列車に乗り続けているに違い無い。何年か、何十年か、それとも何百年と───

 「───私も、あの車掌の様になるのか?」

 もう、何を聞いても良いと思った。動じる心は、すでに疲れきっている。

 すでにもう、何も思い出せなかった──帰る場所も、昔の事も、何一つ霧の中に消えた。

思い出せるのは、ただこの列車に乗る前の、慌しい記憶と、掠れ始めた自分の名前だけ。もはやこの喋る猫すら、なんの不思議もなく感じられる。

 それを察してか、猫は私を見て、哀れみに満ちた顔を作る。

 「車掌になるのは、列車の大のお気に入りだけさ。君は、まだ車掌にはならない」

 「なら、やはり私はその、『完全なる旅人』とやらになるんだな?」

 すると、ふいに猫は鼻を鳴らし、じろりと私を見た。

 「さぁ、それはどうかな?」

 どくりと、胸がざわめくのがわかった。

 列車の揺れとは違う、明らかなる自身の鼓動。同時に、力を無くしていた体に血液が廻り、私の体は何者かに操られる様にして、猫の前に顔を突き出していた。

 「私の記憶は、もとに戻るという事なのか──?」

 「ああ、戻るさ」

 猫は鼻を鳴らし、前足で私の顔を押した。

 「いいか?これから言う事を良く聞くんだ」

 頬を触る柔らかい毛の感触に屈し、しぶしぶと椅子に座ると、目の前から鈴の様な声が響いた。

 「この列車から降りれば良い」 

 「降りる?それだけ?」 

 驚く私を余所に、猫は窓の外を見る。 

 「ちなみに、この景色は本物だ。降りれば、そこは前に君がいた世界と、何一つ変わっちゃいない」

 外にはすでに、最前の田園から、清流を沿って進む山の岸壁へと変わっていた。

 「じゃぁいったい、この列車はいつ止まるんだ?」

 「それは、君の帰る場所が完全に記憶から消えてからさ」

 「なっ・・・・・そ、それじゃぁ遅いじゃないか!」

 「いいや、遅くない。『完全なる旅人』になった君が、列車を降りた途端に記憶が戻る方法がある」

 窓の外を眺めていた猫は、ふるりと尻尾を回し、横目で私を見た。

 「他人の記憶を、分け与えて貰えば良い」

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