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ダウ90000 「また点滅に戻るだけ」 という575調

ダウ90000の公演「また点滅に戻るだけ」があまりに素晴らしかったので、ここにその感動を残しておく。誰か聞いてくれ。そして配信チケットを買おう。今だよ。ほらっ。

書いましたか?じゃあ再生ボタンを押してください。私はその間に愛を綴っておきますので。

さて、ダウ90000という劇団(?)に私が出会ったのは、2年前のM1グランプリ。お笑い好きな私は熱心にM1グランプリの予選から追っていた。特に3回戦以降はいい。決勝に残れるレベルの漫才師が、しのぎを削って4分間に魂を込める。最高だ。

ダウ90000という文字列を見たのはその時。
適当にYoutubeに流れる予選動画を徘徊していると、(失礼ながら)聞いたことがない名前でありながらも、それなりの再生回数を稼いでいたことを覚えている。確かその時はカラタチが同じ動画内で漫才をしていた。

代表の蓮見さんは、「売名目的でM1に出た」というようなことをおっしゃっていて、完全にその思惑通りにはまってしまった。悔しい。
Youtubeにあがっている動画は全部見たし、単独ライブ「10000」も配信で見た。年末のTBSラジオで流れた「その日のコント」は音声でコントを楽しめるんだっていう新しい境地に私を誘ってくれた。彼ら彼女らの、言葉巧みに紡がれるコント(お芝居)は、構成も演技も最高で、どことく往年のラーメンズを私に彷彿させる。

そんなダウ90000が先日、公演「また点滅に戻るだけ」を披露した。香取慎吾さんとか、オモコロ副編集長の原宿さんがtwitterで感想を呟いていたから、それ経由で知った人も多いのではないだろうか?

この恥ずかしさ、狭さも自分の一部なんだ。

私は現地チケットが取れなかったので、生配信で鑑賞しました。
というわけで、以下、ふわっとした感想。

舞台は埼玉の所沢。どこにでもありそうなゲームセンターで、昔ながらの友達同士が再会する。そして、ある事件を鍵に、それぞれの過去と現在が交わり…。

と、ここまで書いて気がついたが、なんてありきたりな設定なんだろう。
そう、ダウ90000の作品は、王道、というか古典的でさえある。にも関わらず、画期的であるのはその圧倒的な現実性に裏打ちされているからだ。私たちの記憶のどこかにあったらいいな、という存在しない過去、それでありながら懐かしい過去を映し出している。

この作品には、著名人も、天才も、登場しない。
町外れのゲームセンターで実際に繰り広げられていてもなんらおかしくない展開だけで、物語が構築されている。だから我々観客は、「これは、私たちのよく知る世界の話だ」という確かな手触りを持ってして、没入できるのだ。

代表の蓮見さんは、きっとこれまでに圧倒的なインプットを重ねてきたんだろうなと、そして見てきた作品が溶け合っているからこそ、オリジナルな作風へと高いレベルで昇華されている。これは、ある意味で本作のヒロインと同じかもしれない。彼女は、理想の自分と現実とのギャップに苦しむ(それでも気丈に振る舞う様子が散見されて可愛い)。周りの人にすぐに影響されちゃうからこそ、「私らしさ」っていうのがなんなのかわからなくなっている。
しかし嬉しいことに、彼女は周りの友達に気が付かされる。周りの人にどれだけ影響を受けようとも、それらをまぜてこねて、自分のものにすることができれば、それはもう「私らしさ」なんだと。私たちは、何者になんかならなくていい。ただ、自分がしっくりとくる在り方を探し続けるだけなんだ、と。そしてその過程こそに、「私らしさ」が芽吹くのかもしれない。

と、あたかもヒロインだけが輝いているような感想を書いてしまったが、もちろんそんなことはない。ダウ90000の演劇のすごいところは、先に言ったように「あまりに現実的」であるところ。だから、9人というメンバーそれぞれに同じ密度の人生があり、そのバックグラウンドをもとにして本作が描かれている。その場に合わせた物語の脇役なんて、1人もいない。本当に、生身の人間がここにいる。そう感じさせてくれる。

聖書の一節に『いつまでも残るものは信仰と希望と愛』とあるけれど、少なくともこの演劇においては、日常の些細な一瞬が、言葉選びが、いつまでも残っていた。それは換言してしまえば愛であり、友情なのかもしれないけれど。

20代が終わる頃に、これを見れてよかった。
「寿司さえまずい」は百依子さんの中から出てきた言葉だと信じています。

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