バビロンに寄せて
チャゼルは『雨に唄えば』のラストに納得がいっていたのか。
映画『バビロン』、本当に素晴らしい映画だった。
興奮したし、泣いた。数々の名作へのオマージュに溢れ、映画というものを俯瞰的に撮り直す姿には、脳を強制的に揺さぶらせる力があった。
監督は『ララランド』で脚光を浴びたディミアン・チャゼル。
公開1週間前には名駅のミッドランドスクエアで過去作『ララランド』や『セッション』の再上映がなされるほど。気持ちが昂らせられる。
公開初日に最寄りの映画館に足を運んだ。サヤエンドウの子供のように、ゆったりとした椅子に身を任せてスクリーンへと視線を固定。期待通り、期待以上に、鳥肌と興奮と涙の3時間だった。
狂気と愛、『バビロン』の概要
『バビロン』の何が素晴らしいかを挙げていけば、キリがないのだが、まずはその洗練された複雑さにある。洗練と複雑さが相容れないものであることは百も承知なのだが、このように書くしかないから仕方ない。
上映時間は3時間を超える長さ。登場人物も舞台場面も多岐に渡る。それぞれの物語が少しずつ交差しながら、時間が進んでいく。胃もたれがするほどの情報量の渦。
これだけ書くと、退屈そうだと思うかもしれないが、この複雑に噛み合った蜘蛛の網の上で、糸が切れないギリギリのバランスで物語が配置されている。その緊張感ゆえか、スクリーンから目を離すことが許されない。数々のオマージュがあるものの、予習はいらない。ただ、この3時間、椅子に拘束されていればいい。
舞台は、1920年代のハリウッド。全ての夢が叶う場所。サイレント映画の大スター、ジャック(ブラッド・ピット)は毎晩開かれる映画業界の豪華なパーティーの主役だ。会場では女優を夢見るネリー(マーゴット・ロビー)と、映画制作を夢見る青年マニー(ディエゴ・カルバ)が運命的な出会いを果たし、心を通わせる。
自由奔放なマニーは特別な輝きで周囲を魅了し、スターへの道を階段飛ばしで駆け上がっていく。マニーもまた、ジャックの助手として映画界ですの一歩を踏み出す。しかし、時はサイレント映画からトーキーへと移り変わる過渡期。ある種の技術革新と文化変異の中、彼ら彼女らは世界に翻弄されながらも、自分の生き方を模索していく。
ラストの素晴らしさに添えて-1
ラストシーンの少し手前。
薬や賭博に身を堕とし、挙句のはてに借金を抱え、マニーとネリーはヤのつく組織から目をつけられてしまう。
共に逃げようと言うマニー。しかし、半ば諦めからか、逃げることに積極的でないネリーは、殺されるならそれでもいいと言う表情を見せる。そんなネリーにマニーはやっとプロポーズし、一緒に生きていこうと伝える。
マニーは出会った時からネリーに惹かれ、この人に人生に観客ではなく演者として関わりたいと思っていた。これまでそれを言葉にすることからは逃げていたのだが、極限状態まで追い込まれることでやっと口にする、プロポーズ。
やや驚きながらも、ネリーは受け入れ、2人は一緒に踊る。ゆったりと。幸せな表情で。
ここで終わっていれば、ただのラブロマンスだ。だが、観ているこっちはそんなに単純じゃない。「どうせ、ここで組織が現れて殺されるんだろ」と、これまでの2時間半に調教されてきた私たちの脳内はその幸せな時間が終わることを予感していた。
ところが、何事もなく踊り終えた2人は車に向かう。
そして、マニーが車から離れた少しの間に、ネリーはまた1人、ゆったりと踊り出し、街灯一つない暗闇の中に向かって吸い込まれていく。ここのマーゴットロビーの演技が本当に素晴らしい。踊っているのだが、全てはその所作ではなく、表情の演技だ。
満足した。満ち足りた。幸せだ。何一つ言葉は発しないが、それが伝わってくる。そして、映画のエンドロールのように、彼女はフェードアウトしていく。
ここがこの映画の中心だ。ここが。詳細な描写は描かれていないが、彼女の死を伝えるには十分な演出。演技。前振り。
ラストの素晴らしさに添えて-2
この場面を観て、思い出す作品がある。
映画の転換期を切り取ったミュージカル作品として知られる『雨に唄えば』だ。
こちらの作品でも、1920年代のハリウッドにおいて、サイレントからトーキーへの移行に翻弄される人々が描かれている。
本作のヒロインは、悪声をもつ女優の替え玉として声を吹き込む役回り。そしてラストシーンでは、彼女がカーテンに隠れて自身の歌声を披露し、幕が開けることで人々の喝采を受けスターの座を手に入れる。綺麗なハッピーエンド。
だが、もちろん、その背景には、輝けなかった人たちがいる。そして、そのような人たちの方が圧倒的に多数なのだ。マジョリティが無視されてきた。
実際に、1920年代が終わる頃、奇妙な事件が実際に多発していたという。
自殺や、自殺と思われる死亡事故、オーバードーズ。それらはサイレントからトーキーへの移行と重なっていた。本当は、煌びやかな世界と残酷な時代は重ね合わされた状態にあったはずなのに、その時代は、美しく、優雅なものであったと『雨に唄えば』では恣意的に切り取る。トーキーへ移行することでこそ、輝くことができた人たちの歌声のみを雨に乗せて。
だからこそ、『バビロン』は生々しい。現実に色付けをしていないからこそ、映画に新たな色が描き出されている。それがより美しいかどうかは分からないけれども。
少し前までは人生に絶望していたネリーが、人生に満足している。そして、人生に満足したからこそ、幕を引くことを選ぶ。誰かの暴力によってではなく、自分自身の手で幕間を演出するのだ。女優としての彼女の生き方がここに現れていた。
そう、輝く場所を求めて生きていたのだ。
同時に、
死ぬ場所を求めて生きていたのだ、と。
『雨に唄えば』では、ヒロインが人生の幕を開けることに対し、
『バビロン』では、その閉じ方をも描いている。
映画史の、ある意味では生贄になってしまった人たちに焦点を当てることで。
そんなディミアンチャゼルの見せたいものが全て詰まった本アンサンブル。上映はもう終わっちゃったから早く配信始まらないかなあって待ってます。
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